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臨床経絡

「経穴ゲートスイッチ理論」に基づいた臨床現場で役立つ経絡治療の紹介

沢山の東洋医学の理論があり、それを学校で学びますがどのように運用するかまでは教えてくれません。「経穴ゲートスイッチ理論」を理解すれば知識が臨床に活かせるようになります。

ここでは「入門」「症例集」「臨床ひろば」「異論な医論」の4つのテーマに分けて紹介しています。

「経穴ゲートスイッチ理論」入門

比較脈診法

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はじめに

経絡治療に脈診は欠かせない診察技術ですがこの技術を完全に習得するには沢山の時間と努力が必要です。かくいう私も自分の技術をこれで足りると思ったことは未だ一度もありません。しかしそうは言いながらも完全ではない診脈力で何十年と臨床をやっているわけです。しかし毎日毎日脈診を何回となく繰り返しているわけですからさすがに以前とは比べものにならないくらい技術は上がったと自分では思っています。それにしても昔の自分の診脈力を考えればよくもあの程度で臨床をこなしていたなあと空恐ろしくなります。証を決定するのに自信が持てず四苦八苦することも度々でした。それでも証さえ立てればそれなりの治療をしてきたわけです。要するに鍼灸はそれなりの技術でもそれなりの事だけはできるわけです。


 さて本来脈診は比較脈診、脈状診を総合的に分析考察して立証の手立てとしますがそのプロセスは熟達した技術をもってしても時として難しいものです。ましてこれから脈診を学習しようとする方達にとっては雲を掴むような話しで途方にくれてしまう事も多いと思います。そこで初心者がより正確に脈診ができる方法として簡易的な比較脈診法を考案し、2000年より臨床に応用しています。


簡易的な脈診法では副証の決定に正確さをやや欠きますが本証の決定だけをみれば本来の比較脈診法とさほどの誤差もないと思います。誤差が出るとしたら副証の絡みが複雑であったり元々脈が診にくく熟達者でも慎重に診脈しなければならないものが殆どです。


 実際の臨床においては脈診だけで立証することは危険なので脈診の精度が多少未熟であっても病症の弁別をしっかりやれば誤差は修正されます。何故なら脈診に比べ病症の弁別は経験の浅い者でも早い時期から正確な弁別ができる可能性があるからです。それは指先の技術ではなく知識として病症のパターンを多く知っていることと患者から得られる情報をその知識を生かして如何に正確に弁別できるかに依るからです。従って病症の弁別を加えれば脈診だけで立証した時と比べると更にその精度はあがりますから初心者であってもそれほどおかしな立証はしないはずです。仮にもし最初の判断が誤っていたとしたら次回の治療でその経験を活かせば必ず徐々に精度は増していきますし、脈状診を会得していくうちに術中に証や選穴や手技の可否が判断できるようになりますから次回の治療まで結果を持たなくてもその場その場で評価しながらより良い治療を行うことができるようになります。


 またこの簡易比較脈診法では陰陽関係、五行関係(相生・相剋)が理解していなくてもできますが学習の過程においてはできるだけ早い時期にその関係を理解し身に付ける事は絶対必須だと思います。


補足)


副証について;経絡治療に於いては副証は相剋理論によって本証と相剋関係にある経には何らかの不調和があるはずであるという考えが根本にありますが証決定に於いて最も重要なのは本証が何であるかであって副証に於いては最初の証決定の段階である程度の目安を付けておくくらいでも良いことが多いのです。
治療の各々の段階で検脈をしていけば副証の治療まで必要ないものや副証自体を考慮しなくて良いものもあります。このことは相剋理論によっても充分説明がつきます。


簡易比較脈診の根拠


その為の裏づけとして陰陽論でいう「陰が虚せばその対立にある陽は逆に実するか見かけ上実したようにみえる」という考え方に基づけば、一般に虚が大きければ実も大きく結果として陰陽の脈打つ幅も大きいであろうということ。そして初心者が感じる強い脈とは多くはこの脈打つ幅の大きいものを強いと感じているという前提で脈診のプロセスを再考してみました。
 再考にあたっての拠りどころとなったのは故福島弘道先生の「小児の脈診法」(「経絡治療要綱」福島弘道著)です。
つまり六部定位が充分に診て取れない小児の脈診で左右の脈の虚実を診て患者の右が全体として虚していれば肺虚か脾虚、左が虚していれば肝虚か腎虚と診るという方法を拠りどころとします。


 前述のように本来虚しているところを診つけるのが脈診なのですが初心者にはこれがなかなか難しい。強く脈打つところは判るがどこが虚しているかということを診断するのは案外難しいものです。
 私が後輩に脈診の指導をするようになって気付いたのですが初心者がここは強く打っていると感じるところは実際には陰分が虚して陽分との陰陽の差が大きくなっているところ、陰陽のバランスが大きく崩れているところを強く打っていると診誤ることが非常に多いのです。


 初心者からすれば強いと思っているところが実は弱いのだといわれても最初はなかなか理解しがたいことでこれが脈診を会得する上での最初の壁となります。


 指導する立場からすれば相手は初心者だから当然こちらの方が正しいのであって相手の見解を正さなければ指導したことにならないと思ってしまいます。しかし指導される側に立ってこれを見直してみると指導する側が虚していると言っているのは陰分の脈状のことで初心者が強いと感じているのは陰陽のバランスの崩れの幅のことなのです。お互いが診ているところが違うのです。勿論指導者はそれは百も承知ですからなんとか陰経の虚を診るように四苦八苦して指導します。


 しかし私は指導していくうちに指導する側が発想を換えて初心者の感じるままで正しい診断にむすびつけるように導くことはできないかと考えてみました。
 乱暴に言えば「初心者にとって強く打っていると感じるところが実は虚しているのだ」という前提で脈診を組み立てる事ができないかということです。勿論初心者から診て強く打っていると感じるだけで実際には虚しているわけですからその習熟度に応じて虚を虚として診れるように指導する事は指導する者は怠ってはならないと思います。ただ初心者が早い時期からより正確に証を立て得るとしたら臨床現場において診断に迷いや躊躇が少なくなるのではないかと考えます。


簡易比較脈診法の実際


1)脈診する部位は六部定位脈診と同じ前腕の橈骨動脈です。

2)左右の脈を寸関尺※1)に捉われず直感的に全体的にはどちらが強く※2)打っているかを比べます。

2-A)ここで患者の右の脈が強い(実際には陰が虚して陽が実しているか平である。以下も同じ)と感じた時は肺虚か脾虚の何れかが本証となる場合が多いのです。
次に肺虚か脾虚かの判断は左右の寸口の脈を比較することによって行います。
もし右の寸口の脈が強ければ本証は肺虚、左の寸口の脈が強いか左右差が無い場合は本証は殆どが脾虚です。
左右の差が無い場合は副証が腎虚で母経の肺経まで虚した4経虚とも考えられます。

2-B)また患者の左の脈が強いと感じた時は腎虚か肝虚の何れかが本証となる場合が多いのです。
次に腎虚か肝虚かの判断はこれも左右の寸口の脈を比較することによって行います。
もし右の寸口の脈が強ければ本証は腎虚、左の寸口の脈が強いか左右差が無い場合は本証は殆どが肝虚です。


 簡易比較脈診法では本来診るべき陰分の虚実を診ずに陰陽のバランスの崩れの大小を診ます。従ってこの診方では本証まではかなりの精度で証決定を導けますが副証までを正確に診断するには至りません。


しかし前述のように証を立てるにあっては脈診が全てではありません。病症の弁別だけで証を立てることだって実際にはできます。しかし病症が2経以上にわたって発現している場合(よく相生・相克関係や子午・奇経の関係などにおいて診られます)は病症の弁別だけでは決定し難いことがあります。こういう時、簡易脈診法を身につけていれば初心者でもどちらが本証かを診分けることが容易にできるはずです。従ってこの脈診法は初心者が虚実を診極める力をつけるまでの時期に少しでも戸惑いや不安を軽減するには充分に役に立つことと思います。


 いずれ虚実を診極めるといった脈状診の技術が向上していくにつれて本来の六部定位脈診法(脈差診)も正確に詳細に診極められるようになるはずです。つまりこの簡易的な方法に細かい脈状診を加えて診ることでより的確にかつ敏速に診断がつくようになりますから実は改めて六部定位脈診を訓練しなければならないということはないはずです


※1)示指を当てる部を寸口の脈、中指を当てる部を関上の脈、環指の当たる部を尺中の脈と言いそれぞれ十二経絡が配当されます。(参考図参照のこと)
※2)ここで言う強い脈とは陰陽のバランスが大きくずれているということ。


簡易脈診法図解


四診法

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弁別・弁証の目的は臓腑・経絡・奇経の何れかにある気血の大過不及の存在を絞り込む作業です。この作業に一番重要で客観性がある情報は患者自身が訴える症状です。そしてその症状の発現している場所は更に重要な情報となります。症状が発現している場所が特定されるとそこを流れる経絡に気血の大過不及の何れかがあると予想できるからです。つまり体表・体幹内の流注を理解しておくという事は弁別・弁証するにあたって非常に重要です。複数の病症が同時に存在する場合でも一つか二つの経絡や奇経の不調和によって起こっていることがほとんどです。
また複数の経絡に病症が点在して一見脈絡の無いようにみえる場合の多くは奇経八脉の何れかの一奇経グループに含まれる場合が多いはずです。

[望診]



患者の肌の色などを五行にあてはめて患者の体質や今の状態を推察します。ただし必ずしも色と証は一致しません。難経四十九難にはその理由が詳しく解説してあります。


「四十九の難に曰く、正経自ら病むことあり、五邪の傷る所あり、何をもってか之を別たん。しかるなり、憂愁思慮すれば心を傷り、形寒え、飲冷するときは肺を傷る。恚怒(の気逆上して下らざるときは肝を傷る。飲食労倦すれば脾を傷る。久しく湿地に坐し、強力して水に入るときは腎を傷る。是れ正経の自病なり。何をか五邪と謂うか。しかるなり、中風あり、傷暑あり、飲食労倦あり、傷寒あり、中湿あり、此れを五邪と謂う。仮令ば心病何をもって中風之を得たることを知らん。しかるなり、その色当に赤なるべし、何をもって之を言えば肝は色を主る。自ら入りては青きことをなし、心に入りては赤きことをなし、脾に入りては黄をなし、肺に入りては白をなし、腎に入りては黒をなす。肝、心の邪となる。故に知らんぬ当に赤色なるべし。その病、身熱し、脇下満ち痛む、その脈浮大にして弦。何をもって傷暑之を得たること知らん。しかるなり、当に臭を悪むべし、何をもって之を言えば心は臭を主る。自ら入りては焦臭となり、脾に入りては香臭となり、肝に入りては?臭となり、腎に入りては腐臭となり、肺に入りては腥臭となる。故に知らんぬ心病傷暑より之を得れば当に臭を悪むべし。その病、身熱して煩し、心痛、その脈浮大にして散。何をもってか飲食労倦より之を得たることを知らん。しかるなり、苦味を喜むべし、虚は食を欲せざることをなし、実は食を欲することをなす、何をもって之を言えば脾は味を主る。肝に入りては酸となり、心に入りては苦となり、肺に入りては辛となり、腎に入りては?をなす、自ら入りては甘きことをなす。故に知らんぬ脾の邪心に入りては苦味を喜むことをなすことを。その病、身熱して腰重く、臥すことを嗜み、四肢収らず、その脈浮大にして緩。何をもってか傷寒より之を得たることを知らん。しかるなり、当に譫言妄語すべし、何をもって之を言えば肺は聲を主る。肝に入りては呼をなし、心に入りては言をなし、脾に入りては歌うことをなし、腎に入りては呻をなし、自ら入りては哭をなす。故に知らんぬ肺の邪心に入りては譫言妄語をなすことを。その病、身熱して洒々として悪寒し、甚しきときは喘咳す、その脈浮大にして□。何をもって中湿より之を得たることを知らん。しかるなり、当に喜んで汗出て、止むべからず、何をもって之を言えば腎は湿を主る。肝に入りては泣をなし、心に入りては汗をなし、脾に入りては涎をなし、肺に入りては涕をなし、自ら入りては唾をなす。故に知らんぬ腎の邪心に入りては汗出て止むべからざることをなすことを。その病、身熱して小腹痛み、足脛寒えて逆す、その脈沈濡にして大。此れ五邪の法なり。」


舌診は細かく弁別すれば奥が深いのですが寒熱の有無程度を直接診るのに簡単な方法で便利です。例えば舌に血色が無ければ寒証で舌が真っ赤にしていれば熱証でその赤みの程度で寒熱の有無や度合いを判断できます。

聞診 ;  患者から発せられる音(声・呼吸音・咳)を観察して病状を判断するのですが古来解説されてきた五音の分類の他に西洋医学的に考察した情報を東洋医学的に考察することも有意義です。例えば咳のある患者ではその咳が湿潤か乾燥しているかを聞き分けます。


また喘息症状があって呼吸をするのがつらい場合、吸気がつらいのか呼気がつらいのかを確かめることも有意義です。難経四難によれば「呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る」とあり、吸気の場合には腎の病症で呼気の場合は肺の病症であると判断できますから喘鳴を聴診して吸気・呼気の何れに雑音があるかを確認したり患者本人から呼気時に辛いのか吸気時に辛いのかを聞き出したりして診断に役立てます。


「四の難に曰く、脈に陰陽の法ありとはなんの謂ぞや。しかるなり、呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る。呼吸の間に脾は穀味を受く。その脈、中にあり。浮は陽なり、沈は陰なりゆえに陰陽という。心肺はともに浮、何をもってかこれを別たん。しかるなり、浮にして大散なるものは心なり。浮にして短□なるものは肺なり。腎肝はともに沈、何をもってかこれを別たん。しかるなり、牢にして長なるものは肝なり、これを按じて濡、指を挙ぐれば来ること実なるものは腎なり、脾は中州、ゆえにその脈、中にあり、これ陰陽の法なり。脈に一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽、一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰あり。この如きの言、寸口に六脈ともに動ずることありや。しかるなり、この言は六脈ともに動ずること有るにあらず。いわゆる浮沈、長短、滑濇なり。浮は陽なり、滑は陽なり、長は陽なり、沈は陰なり、短は陰なり、□は陰なり。いわゆる一陰一陽は脈来ること沈にして滑なるをいう。一陰二陽は脈来ること沈滑にして長なるをいう。一陰三陽は脈来ること浮滑にして長、時に一沈なるをいう。一陽一陰は脈来ること浮にして□なるをいう。一陽二陰は脈来ること長にして沈□なるをいう。一陽三陰は脈来ること沈□にして短、時に一浮なるをいう。各々その経の在る所をもって病の逆順を名づく。」


[問診]

四診の中で最も重要で時間をかけて診察しなければならない診察法です。患者が訴える症状を具体的に出来るだけ細かく聞き出します。


例えば患者が喉が痛いと訴えて直ぐに肺の病症と決めつけるのは軽率すぎます。まず痛みが持続性なのかある一定の条件でのみ傷むのか、持続性であれば拍動性があるのか緊張やひきつりがあるのか確かめる必要があります。喉の痛みが鼻の奥なのか舌の根元の方なのかはたまた耳の奥に近いところなのかを確かめることによってふ調和を起こしている経絡を絞り込むことが出来ます。


関節の痛みの場合などは動作によって増悪するかどうかどの動作によってそれが顕著に現れるか痛みの部位に関しては痛みの部位がどの経絡流注にあたるかも確かめなければなりません。


これらの問診は如何に経絡流注を把握しているかによって絞り込みできる範囲が違ってきますので体表面だけの流注に留まらず体幹深部の流注も把握しておくと便利です。


また臓腑の働きを知っておくことは病症の弁別に欠かせません。例えば頭痛においては胃の下降作用が上手く働かなくなった為に吐き気や頭痛の症状が出ることがあります。もちろん頭痛はその他にも肝・胆・膀胱・小腸・督脈などの病症としても現れます。時に複数の経にわたって病症が出ることもあります。また病症が精神的要因で現れたり物理的要因で現れたりと同じようにみえる頭痛でも細かく問診していくとその要因は様々です。従ってそれらの要因によって治療に選ぶ経穴も違ってきたりします。またその症状が精神的要因によって現れている場合にはカウンセリングの技術も出来るだけ備えておく必要があります。
東洋医学的に言えば心の問題が生じると生体内の気の調整が円滑に行われなくなって様々な症状が現れてきます。この様なときに適切なカウンセリングが行われると一時的にでも気の調和がとれるはずです。そしてその積み重ねは無視できません。また患者の状態を治療家が今現在どのように診てどのように治療していこうとしているかの説明、いわゆるインフオームドコンセントも大切です。


また多くの患者は東洋医学の概念はあまり詳しく知らない人が多いのですが反して西洋医学に関しては広く知られていることが多いので東洋医学的に説明するだけでなく西洋医学的に診るとそれがどう言うことであるか、またその場合に東洋医学が出来ることは何かと言うこともできるものは説明を加えると良いと思います。



[切診]


切診で一番重要な診察法と言えば脈診です。脈診には脈状診と脈差診があります。脈状診は患者の状態を知るうえでとても意義のある診察法です。また予後の判定、ドーゼ量などの治療方針を決めていくのにも有意義です。さらに毎回の治療の評価を脈状診によって終了時に行うことは絶対怠ってはいけません。脈差診は六部定位脈診が一般的で難経の六十九難などにみられるような陰陽、五行、相生、相剋理論に基づいた診察法でいわゆる経絡治療における代表的な脈診法です。脈状診も脈差診も習熟するにはどちらもたくさん数をこなして経験を積まなければなりませんが後で述べる私が考案した「簡易脈診法」を使えば初心者でも比較的正確に脈差診を行うことが出来ます。


次に腹診の西洋医学との違いは西洋医学では腹壁の下にある臓器を間接的に手で触れて腫瘤をみつけたりすることが主な目的ですが東洋医学では腹を上腹左右、心窩、臍周囲、下腹、下腹左右に分けてそこに五臓を割り当ててそれぞれの部位の状態を観察します。観察する項目は熱感・冷感、硬結・軟弱、乾燥・湿潤、膨隆・陥凹、圧痛などです。また腹に分布する経絡、経穴も併せて観察します。また腹部には募穴が分布しておりこれを観察し治療点とすることもあります。また鼠径部や下腹部では中央から任脈、腎経、脾経、胃経の順に経脈が流注しているのでそこを観察したり治療点に求めたりします。


次に切経ですがこれは患者が訴える場所の付近を循る経絡を観察したり病症から判断して流注上に何らかの変化を観察できる可能性のある経絡に沿って病症に適合する所見がないかを観察します。所見とは熱感・冷感、硬結・軟弱、乾燥・湿潤、膨隆・陥凹・圧痛などです。また更に絞ってその病症に関わりがありそうな要穴を観察したりします。切経に関しても体表の流注を良く知っておくことは当たり前ですが体表より深いところの流注を把握しておくことも弁別において有意義です。


「自動調整機能」の維持に重要な働きをしている気は一般的概念では正気と邪気が存在すると考えられています。しかし私自身は正気と邪気の区別はなく存在するのは気ひとつであると考えています。つまりその大過不及によってその及ぼす影響が違うだけで過呼吸時における血中酸素分圧の上昇が人体に及ぼす影響と同じことだと考えています。


具体的に言えば大過の時は気が多過ぎて正常に機能できず人体に不調和を起こします。このような状況にあるところの気を一般には別の物として邪気(実邪)と呼んでいますが元々は正気と呼ばれる気と何ら代わりのないものだと考えます。また不及の時も気が足りないだけなのですが足りないことで起こっている状況をあたかも何か特別の物が存在して起こしているように考えて虚性の邪などと区別したりしていますがこれも全く同じ気の現象のひとつだと考えます。


つまり一般に言う正気とは気が人体に都合の良いように働いている時の気の状態を指して言っていると考えます。したがって正気も邪気もどちらも全く同じ物でその人体への働きかけの違いによって呼び方を変えているだけと考えています。


ところでここで論じてきた邪気は厳密に言えば内邪のことです。『内因なければ外邪入らず』という言葉がありますが、では内因とはどんなものかを一言でいえば『気の大過不及の状態が体内に起っている状態』を指します。つまり内因があれば元々それだけで病症を発現し易くなっているところに更に体内の気のバランスを崩すようなストレスが外から加わると病症も更に出易くなります。また既に在る病症は更に増悪する可能性が出てくるということになります。


バランスの崩し方は『更に大きく大過不及が進む』場合と『体内の気の総量が更に減少してしまう』場合と『その二つが同時に起こる』場合があります。


『内因なければ外邪入らず』というのは体内においても元々程度の差はあれ大過不及があったり気の総量が少なかったりすると外界の刺激によって更にバランスを崩し病症が出易くなるということであって、もし体内において大過不及がなかったり仮にあっても気の総量が十分あれば病症は出にくいということをあらわしています。



実 技

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1.刺鍼法


前段の補瀉論に準じて刺鍼法を再検討しながら臨床にあたってみると刺鍼技術の如何によっても治療効果が違ってはきますが第一義に重要なのは正しく選穴され正しく取穴されているかという事だと言うことが判ります。つまり未熟な臨床家ほど治療効果にばらつきがあるのは弁証の未熟さばかりではなく取穴の曖昧さに因るところも多いと言うことです。従って正しく弁証され取穴が正確であれば特別な技術がなく普通の刺鍼技術であっても治療効果を充分期待できると思います。しかし、まずは正確に経穴に鍼を刺せる技術を得ることは必要です。押手の指先で目当ての経穴を探り当てたらその場所に鍼先が正確に行くように訓練すべきです。また、管鍼で刺鍼する方法で殆どの治療は出来ますが、捻鍼も同じように出来るようになってしまえば連続的な手技を手早く行うときなど臨床実践で非常に便利です。また治療の目的は症状を取り除くことですがその目的のために治療が間違いなく進んでいるかを確かめる手段として脈状診を用います。実際に試してみれば直ぐに判ることですが一本一本鍼をする度に患者の脈状は変わっていきます。したがって鍼を一本刺す度に検脈していれば治療方針や選穴・手技などが妥当かが脈状を診ることで判断できます。脈状の変化は同じ条件下でも鍼の材質・太さ、刺入の深さ、手技の違いなどで違ってくることがあります。何れにしても症状が改善するためには少なくとも脈状が改善されていかなければなりません。どの様な方法手段を用いても脈状が整ってこない限り問題は解決しません。


<刺鍼の深さ>

次に刺鍼する鍼の深さですが多くの場合それほど深く刺すことはなく切皮程度で充分です。時にそこから少し進めたり、また逆に皮膚に鍼尖が当たっているだけのような手技の方がよりよい脈状を作ることが出来るときもあります。これらの手技は色々な深さを試してその度の脈状の変化を観察して経験を深めていくことで必ず熟達してきます。正しく選穴し取穴していても気の動きが思うようにいかない時がありますがこういう場合に一番考えられるのは押手の問題です。例えば刺入の深さが浅いときは押手でしっかり鍼先を安定させないと刺入痛が出やすいし経験的に言えば脈状の変化も乏しくなります。何れにしても丁寧な手技が大切です。


<押手>

押手の役割はただ単に鍼体を支えているだけではありません。押手の出来の如何によって気の動きに大きな違いがあります。例えば難経七十一難にあるように体表面を流れる気を狙って鍼を刺すのかそれを越えて血脈を狙うのかによって押手の下面が皮膚面を押す圧力も変えなければなりません。具体的に言えば気を狙うときは押手は軽くして気の流れを妨げないようにしなければなりませんし逆に血脈を狙うときはその上の気の流れを損なわないように押手に圧力をかけて血脈の上を流れる気を押し退けて刺さなければなりません。


「七十一の難に曰く、経に言う、栄を刺すに衛を傷ることなかれ、衛を刺すに栄を傷ることかれとは何の謂ぞや。しかるなり、陽に針するものは針を臥せて之を刺す。陰を刺すものは先づ左手をもって針する所の栄兪の処を摂按して、気散って、乃ち針を内る。是を栄を刺すに衛を傷ることなかれ、衛を刺すに栄を傷ることなかれと謂うなり。」


<補法・和法>

経穴ゲートスイッチ理論に於いては従来の外から正気を補うと言う「補法」の概念を用いなくても治療を成立できます。あえて言えば経穴ゲートスイッチ理論に於ける「補法」とは目的のゲートを稼働させる為の手技である「余裕のあるところから偏って足りないところに気を補う」手法を「補法」と言い、「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」為の手法を「瀉法」の一部と言うことになります。つまり大過不及がある場合これらは普通単独では生じず大過があればどこかに不及があり、不及があればまたどこかに大過が存在します。病症が不及によって生じている場合「余裕のあるところから偏って足りないところに気を補う」補法を行い、病症が大過によって生じている場合「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」瀉法を行うと言うことになります。つまり「補法」にしろ「瀉法」にしろゲートスイッチが稼働するように鍼を行うことで大過であれ不及であれ生体が調和するように状況が変化すると考えます。そこには特別「補」もなく「瀉」もない領域、単に「ゲートスイッチを稼働させる為」の手法があります。刺鍼のやり方の中には雀啄・弾爪など様々の方法がありますが実際の臨床でゲートスイッチを稼働させるに必要な手技とは多くの場合が単刺即抜か置鍼で済みます。もしそれだけでは手応えに欠けるというようなときには「和法」の手技が有効です。「和法」の手技は元々は気血が滞っているときその動きを促す方法です。その手法は幾分雀啄に近い手技ではありますが厳密に言えば鍼を抜き差ししない方法です。具体的に言えば切皮し目的の深さまで刺人したならば鍼がぐらつかないように押し手をしっかり安定させたうえで鍼柄を刺し手で軽く持ち鍼先の方向に押しつけたり緩めたりを繰り返します。これをゆっくり繰り返していると私の場合は押し手の下で患者の皮膚が息打つような感じをしばしば感じ取ることがあります。これは「和法」に限らず滞っている気が盛んに動き始めるときには感じることが出来ます。この感じが掴めた時に患者に症状の変化を尋ねてみると症状が軽快したり消失したりしていることがよくあります。もちろんそういう結果を得るためには目的の症状に狙いを定めた選穴ができていることが大切です。またこの経験からも判るように鍼治療に必ずしも強い得気を得ることがそれほど重要ではないと解ります。「和法」の手法は標治法においても気血の流通を促す目的で広く応用できる便利な手法です。元来「和法」という言葉は故福島弘道先生が唱えられた概念と手法で「補でなく瀉でもない。しかし明らかに気の流通に滞りがあるときに有効な手技」として東洋はり医学会において位置づけられた手技のことを言うのですが「補でも瀉でもない」という概念からしても手法に於いても全くと言って良いほどそっくりなのでここでも同じ「和法」という言葉を使わせてもらいました。


補足)
一般的には大過と不及は生体内に同時に存在すると考えて良いのですが大過だけが存在する場合や不及だけが存在する場合も少なからずあります。大過だけが存在する場合の例として急性熱性疾患の一部があります。この場合は瀉法を施すだけで解決するものもあります。この場合の瀉法は毫鍼で行うものから三稜鍼で行うものまであります。三稜鍼の場合は井穴刺絡と細絡を切る方法などがあります。また不及だけが存在する場合には気血の絶対量が著しく乏しい状態の場合、東洋医学ならば鍼灸に加えまず食事療法や湯液によって気血の絶対量を増やす必要があります。そのままの状態で鍼だけをしても効果が著しく緩慢で病の変化に応じきれなかったりします。しかし食事療法や湯液によって気血の絶対量を増やすにしても多少時間を要しますからそれも猶予ならないような例えば激しい脱水症のような場合は西洋医学的に適宜輸液を行います。
気血の絶対量が少ない状態の時は何れにしても鍼は極々軽微に行います。


<瀉法>

先に述べたように「瀉法」と言っても私が考える「瀉法」は「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」為にゲートスイッチを稼働させるための手法です。従って「和法」は瀉法の範疇にもあると言うことになります。これも「補法」と同じで邪気の出入を計量する方法はまだありません。したがって脈状をみて手技の可否を判断するしかありません。しかし先に補足で述べたように著しく大過だけが存在する場合は「和法」では十分でないものがあります。これらは刺絡を行うことで整えることが出来ます。


考察)
霊柩九鍼十二原篇や小鍼解篇には刺鍼法が述べられており現代の刺鍼法もそれに準じて区別されていますが補瀉の手法に関しては当時の鍼と私達が使っている鍼との違いを考慮に入れて補瀉の手法を考える必要があると思います。つまり金属加工技術が未熟であった時代に於いては鍼の太さは今と比べると相当に太く刺鍼する度に押し手で止血をしないと出血してしまうようにあったと考えられます。ですから補瀉の手法をはっきり意識していないと経穴ゲートスイッチ理論で言うところの「余裕のあるところから偏って足りないところに気を補う」目的や「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」だけの目的で充分な場合に於いても目的に反して体外に過度に気血が漏れたりする恐れが多分にあるのでそういうことがないように補瀉の手法を厳密に区別する必要があったのだと考えられます。現代の日本で広く使われている程度の細身の一般的な鍼の太さであればそれほど厳密に補瀉の手技を意識しなくても取穴が正確であれば影響は少ないと思います。


<散鍼>

体表面の気の流通を面的に広く促すときに便利な方法です。鍼先を皮膚に軽く当たる程度にチョンチョンと刺し手だけで面的に突ついていくようにすれば「瀉的散鍼」になります。突つきますが突き刺すのではありませんし強い痛みを与えては駄目です。手技が適切であれば少し鍼先を感じても患者は不快感を持ちません。それどころか気持ち良いと感じる患者も少なくありません。チョンチョンと刺し手を動かしながら本来押し手であるもう一方の指の腹で鍼先の当たったところをさっさと撫でていく手法は滞った気の流れを促すときに効果があります。強いて名前を付ければ「和的散鍼」でしょうか。何れも手早く行うことが肝心です。


<刺入方向>

極浅い鍼の場合は鍼の方向を考慮してもあまり意味がないので直刺で構わないと思います。ただし切経して取穴する場合、指の押しつける方向によって反応が違う場合があります。反応は術者の指先に硬結などを感じるだけの場合と患者が圧痛などを併せて感じる場合があります。この様なときはその反応を良く感じた方向に向けて鍼先を向けると目指す効果がより期待できます。特別流注に従ったりまた逆らったりして補瀉を考えることはありません。あくまでも気血のアンバランスを是正できるスイッチをONにする為に鍼を刺します。

難経(二十一難~五十難)

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二十一難(生死)

二十一の難に曰く、経に言う、人形病んで脈病まざるを生くという。脈病んで形病まざるを死というとは何んの謂ぞや。しかるなり、人形病んで脈病まずとは病まざるものあるにあらざるなり、いわゆる息数、脈数に応ぜざるなり。此れ大法なり。
 

二十二難(是動病・所生病)

二十二の難に曰く、経に言う、脈に是動有り、所生病有り、一脈変じて二病となるものは何ぞや。しかるなり、経に言う、是動とは気なり。所生病とは血なり。邪、気にあれば、気是がために動ず。邪、血にあれば生ずる所の病を生ず。気はこれを呴(アタタ)むることを主り、血はこれを濡すことを主る。気留って行らざれば、気先づ病むことをなす、血壅(フサガ)って濡さざれば、血後に病むことをなすなり、故に是動を為すことを先にし、所生を後にす。


二十三難(経絡:脾の大絡・脈診)

二十三の難に曰く、手足の三陰三陽の脈の度数、暁すべきことをもってせんやいなや。しかるなり、手の三陽の脈は手より順に至って、長きこと五尺、五六合して三丈、手の三陰の脈、手より胸中に至って、長きこと三尺五寸、三六一丈八尺、五六三尺、合して二丈一尺、足の三陽の脈、足より順に至って、長きこと八尺、六八四丈八尺、足の三陰の脈、足より胸に至って、長きこと六尺五寸、六六三丈六尺、五六三尺、合して三丈九尺、人両足の蹻(キョウ)脈は足より目に至る、長さ七尺五寸、二七一丈四尺、二五一尺、合して一丈五尺、督脈任脈は各々四尺五寸、二四八尺、二五一尺、合して九尺。凡て脈の長さ一十六丈二尺、これいわゆる十二経脈長短の数也。経脈十二絡脈十五、何くに始り、何くに窮るや。しかるなり、経脈は血気を行らし、陰陽を通じもって身を栄するものなり。それ中焦より始って、手の太陰、陽明に注ぎ、陽明より足の陽明、太陰に注ぎ、太陰より手の少陰太陽に注ぎ、太陽より足の太陽少陰に注ぎ、少陰より手の心主少陽に注ぎ、少陽より足の少陽厥陰に注ぐ、厥陰復た還って手の太陰に注ぐ。別絡十五皆なその原に因り、環の端なきが如し。転た相灌漑して寸口人迎に朝す、もって百病を処し、しかして死生を決するなり。経に云う、明に終始を知って陰陽定るとは何の謂ぞや。しかるなり終始は脈の紀なり。寸口人迎は陰陽の気、朝使に通じて環の端無きが如し、故に始と曰うなり。終は三陰三陽の脈絶なり、絶する時は死す、死するに各々形有り。故に終という。
 

二十四難(病理:気絶)

二十四の難に曰く、手足三陰三陽の気、已に絶せば何をもってか候となしてその吉凶を知るべきや否や。しかるなり、足の少陰の気絶すれば即ち骨枯る。少陰は冬の脈なり、伏行して骨髄を温む故に、骨髄温かならざれば即ち肉骨に著かず、骨肉相親まざれば、即ち肉濡かにして却る。肉濡にして却る故に、歯長くして枯る、髪に潤沢無し、潤沢無きものは骨先づ死す、戊の日に篤しく、已の日に死す。足の太陰の気絶するときは脈その口唇を営せず、口唇は肌肉の本なり。脈栄せざれば、肌肉滑沢ならず、肌肉滑沢ならざるときは肉満つ、肉満つるときは唇反る、唇反るときは肉先づ死す、甲の日に篤く、乙の日に死す。足の厥陰の気絶すれば、即ち筋縮り卵と舌とに引いて巻く。厥陰は肝の脈なり、肝は筋の合なり、筋は陰器に聚つて舌本を絡う、故に脈営せざるときは筋縮り急す、筋縮急なれば、即ち卵と舌とに引く、故に舌巻き卵縮る。これ筋先づ死す。庚の日篤く、辛の日に死す。手の太陰の気絶すれば、即ち皮毛焦る、太陰は肺なり、気を行らし、皮毛を温るものなり。気営せざるときは皮毛焦る、皮毛焦るときは津波去る、津液去るときは皮節傷る、皮節傷るときは皮枯れ、毛折る。毛折る者は毛先づ死す。丙の日篤く、丁の日死す。手の少陰の気絶するときは脈通ぜず、脈通ぜざるときは血流れず、血流れざるときは色沢去る。故に面色黒くして黧(レイ)の如し、此れ血先づ死す。壬の日に篤く、癸(ミズノト)の日に死す。三陰の気、倶に絶するものは、則ち目眩転し、目瞑す、目瞑するものは志を失する事を為す。志を失するものは、則ち志先づ死す、死するときは目瞑すなり。六陽の気、倶に絶するときは陰と陽と相離る、陰陽相離るときは腠理泄して絶え汗乃ち出て、大さ貫珠の如く、転た出で、流れず、即ち気先づ死す。旦(アシタ)に占みて夕に死し、夕に占みて旦に死す。


二十五難(心包経・三焦経)

二十五の難に曰く、十二経有り、五蔵六府は十一のみ、その一経は何等の経ぞや。しかるなり、一経は手の少陰と心主と別脈なり。心主と三焦と表裏となす、倶に名有って形無し、故に経に十二有りと言うなり。


二十六難(陰蹻脈・陽蹻脈)

二十六の難に曰く、経に十二有り、絡に十五有り、余の三組絡はこれ何等の絡ぞや。しかるなり、陽絡有り、陰絡有り、脾の大絡有り。陽絡は陽蹻の絡なり、陰絡は陰蹻の絡なり。故に絡十五あり。


二十七難(奇経八脈)

二十七の難に曰く、脈に奇経八脈と云うもの有って十二経に拘らざるは何ぞや。しかるなり、陽維有り、陰維有り、陽蹻有り、陰蹻有り、衝育り、督有り、任有り、帯の脈有り、凡そ此の八脈は皆経に拘らず、故に奇経八脈と曰う。経に十二有り、絡に十五有り、凡て二十七気相随って上下す、何んぞ独り経に拘らざるや。しかるなり、聖人溝渠を図り設け、水道を通利してもって上然に備う、雨降下すれば溝渠も溢満す、此の時に当ってホウ霈(ハイ)妄りに作る、聖人も復た図ること能わず。此の絡脈満溢すれば諸経も復た拘ること能わざるなり。


二十八難(奇経八脈:流注)

二十八の難に曰くその奇経八脈のもの既に十二経に拘らずんば、皆何くに起り、何くに継ぐぞや。しかるなり、督脈は下極の兪に起り脊裏に並んで上り、風府に至り、入って脳に属す。任脈は中極の下に起り、もって毛際に上り、腹裏を循り、関元に上り、喉咽に至る。衝脈は気衝に起り、足の陽明の経に並んで臍を夾みて上行して胸中に至って散ず。帯脈は季脇に起り、身を廻ること一周す。陽蹻(キョウ)の脈は跟中に起り外踝を循り、上行して風池に入る。陰蹻脈は亦跟中に起り、内踝を循り上行して咽喉に至り衝脈に交り貫く。陽維、陰維は身を維絡す、溢畜諸経に環流潅漑すること能わざる者なり。故に陽維は諸陽の会に起る。陰維は諸陰の交に起る。聖人溝渠を図り設く、溝渠満溢して深湖に流る、故に聖人も拘り通ずること能わざるに比す。而して人の脈隆盛なれば、八脈に入って環流せず、故に十二経も亦、之を拘ること能わず。それ邪気を受けて畜るときは腫熱す、砭(ヘン)にて之を射す。


二十九難(奇経八脈:病症)

二十九の難に曰く、奇経の病たること何如ん。しかるなり、陽維は陽を維し、陰維は陰を維す。陰陽自ら相維すること能わざるときは、悵然として志を失し、溶々として自ら収持すること能わず。陽維の病たること寒熱を苦しむ、陰維の病たること心痛を苦しむ、陰蹻の病たること陽緩くして陰急、陽蹻の病たること陰緩くして陽急なり、衝の病たること逆気して裏急す、督の病たる背強りて厥す、任の病たることその内、結を苦しむ、男子は七疝(セン)となし、女子は瘕(:キズ)聚をなす、帯の病たること腹満し腰溶々として水中に坐するが若し、此れ奇経八脈の病を為すなり。


三十難(栄衛の循環)

三十の難に曰く、栄気の行、常に衛気と相随うや、いなや。しかるなり、経に言く、人は気を穀に受く、穀胃に入って、乃ち五蔵六府に伝与す、五蔵六府皆気を受く。その清きものは栄となり、濁るものは衛となる、栄は脈中を行き、衛は脈外を行く。栄周して息まず、五十にして復た大いに会す、陰陽相貫くこと環の端無きが如し、故に知らんぬ栄衛相随うことを。


三十一難(三焦・治療点)

三十一の難に曰く、三焦は何くに稟(ウケ)て何くに生じ、何くに始まり、何くに終る、その治常に何の許に在り暁すべきこともってせんやいなや。しかるなり、三焦は水穀の道路、気の終始する所なり。上焦は心下下鬲(レキ)に在り、胃の上口に在り、内れて出さざることを主る、その冶、膻中に在り、玉堂の下一寸六分、直ちに両乳の間、陥なるもの是れなり。中焦は胃の中脘に在り、上ならず、下ならず、水穀を腐熟することを主る、その治、臍の傍らに在り。下焦は膀胱の上口に当る、清濁を分別することを主り、出して内れざることを主り、伝道をもってするなり、その治、臍下一寸に在り。故に吊けて三焦という。その府気街に在り。

 

三十二難(心肺の位置)

三十二の難に曰く、五蔵倶に等しくして、心肺独り鬲上に在るものは何んぞや。しかるなり、心は血、肺は気、血は栄となり、気は衛となる、相随って上下す、之を栄衛と謂う。経絡を通行し、外に営周す、故に心肺をして鬲上に在らしむ。


三十三難(解剖:肺肝の位置)

三十三の難に曰く、肝は青くして木に象る、肺は白くして金に象る。肝は水を得て沈み、木は水を得て浮ぶ、肺は水を得て浮び、金は水を得て沈む、その意何んぞや。しかるなり、肝は純木たるにあらざるなり、乙角なり、庚の柔、大言すれば陰と陽、小言すれば夫と婦、その微陽を釈て、その微陰の気を吸う、その意金を楽しむ、又陰道に行くこと多し、故に肝をして水を得て沈ましむ。肺は純金たるにあらざるなり辛商なり、丙の柔、大言すれば陰と陽、小言すれば夫と婦、その微陰を釈て婚して火に就く、その意火を楽しむ、又陽道に行くこと多し、故に肺をして水を得て浮ばしむ。肺熟して復た沈み、肝熟して復た浮ぶものは何んぞや。故に知らんぬ、辛は当に庚に帰すべし、乙は当に甲に帰すべし。


三十四難(五蔵の色体)

三十四の難に曰く、五蔵各々声色臭味有り、皆暁し知るにもってせんやいなや。しかるなり、十変の言、肝の色は青く、その臭は臊(ソウ)、その味は酸、その色は呼、その液は泣。心の色は赤、その臭は焦、その味は苦、その声は言、その液は汗。脾の色は黄、その臭は香、その味は甘し、その声は歌、その液は涎。肺の色は白くその臭は腥(ナマグサイ)、その味は辛、その声は哭く、その液は涕(ナミダ)。腎の色は黒く、その臭は腐、その味は鹹(カン;シオカライ)、その声は呻、その液は唾。これ五蔵の声色臭味なり。五蔵に七神有り、各々何を蔵す所ぞや。しかるなり、蔵は人の神気の舎蔵する所なり。故に肝は魂を蔵し、肺は魄を蔵し、心は神を蔵し、脾は意と智とを蔵し、腎は精と志とを蔵す。
 

三十五難(解剖:五蔵の位置)

三十五の難に曰く、五蔵各々所有り、府皆相近くして、心肺独り大腸小腸を去ること遠きものは何んぞや。しかるなり、経に言う、心は栄、肺は衛、陽気を通行す、故に居上に在り、大腸小腸は陰気を伝えて下る、故に居下に在り。所以に相去ること遠きなり。又諸府は皆陽なり、清浄の処、今大腸小腸、胃と膀胱は皆上浄を受く、その意何んぞや。しかるなり、諸府とは謂る是れ非なり。経に言う、小腸は受盛の府なり、大腸は伝写行道の府なり、膽(タン)は清浄の府なり、胃は水穀の府なり、膀胱は津液の府なり、一府猶両名なし、故に知んぬ非なる事を。小腸は心の府、大腸は肺の府、膽は肝の府、胃は脾の府、膀胱は腎の府。小腸は謂る赤腸、大腸は謂る白腸、膽(タン)は謂る青腸、胃は謂る黄腸、膀胱は謂る黒腸、下焦の治る所なり。


三十六難(解剖・生理:腎・命門)

三十六の難に曰く、蔵各々一有るのみ、腎独り両つあるものは何んぞや。しかるなり、腎の両つあるは皆腎にあらずその左なるものは腎となし右なるものは命門となす。命門は諸々の神精の舎る所、原気の繋る所なり、男子はもって精を蔵し、女は以つて胞を繋ぐ、故に知んぬ腎に一つ有ることを。


三十七難(生理:五蔵・陰陽)

三十七の難に曰く、五蔵の気何くに於いて発起し何れの許に通ずる、暁すべきこともってせんや否や。しかるなり、五蔵は当に上、九竅に関す。故に肺気は鼻に通ず、鼻和すれば香臭を知る。肝気は目に通ず、目和するときは黒白を知る、脾気は口に通ず、口和するときは穀味を知る、心気は舌に通ず、舌和するときは五味を知る、腎気は耳に通ず、耳和するときは五音を知る。五蔵和せざるときは九竅が通ぜず、六府和せざるときは留結して癰(ヨウ)となる。邪六府に在るときは陽脈和せず、陽脈和せざるときは気之に留む、気之に留るときは陽脈盛なり。邪五蔵に在るときは陰脈和せず、陰脈和せざるときは血之に留る、血之に留るときは陰脈盛なり。陰気太だ盛なるときは陽気相営することを得ず、故に格と曰う。陽気大だ盛なるときは陰気相営することを得ず、故に関という。陰陽倶に盛にして相営することを得ず、故に関格という、関格はその命を尽すことを得ずして死す。経に言う、気独り五蔵に行って六府に営せざるものは何んぞや。しかるなり、気の行る所は水の流れるが如く息することを得ず。故に陰脈は五蔵を営し、陽脈は六府を営す、環の端無きが如く、その記を知ることなし、終って復た始まる。それ覆溢せざれば、人の気、内蔵府を温め、外腠理を濡す。


三十八難(解剖:三焦)

三十八の難に曰く、蔵唯五有り、府独り六有るは何んぞや。しかるなり、府の六つある所以のものは謂る三焦なり。原気の別あり、諸気を主持して、名有って形無く、その経手の少陽に属す、此れ外府なり、故に府に六有りと言う。


三十九難(解剖・生理:腎・命門)

三十九の難に曰く、経にいう、府に五有り蔵に六有るとは何んぞや。しかるなり、六府は正に五府なり、五蔵亦た六蔵有るものは謂る腎両蔵有ればなり、その左を腎となし、右を命門となす、命門は精神の舎る所なり、男子はもって精を蔵し、女子はもって胞を繋ぐ、その気腎と通ず、故に言う、蔵に六有りと。府五有るものは何んぞや。しかるなり、五蔵に各々一府、三焦も亦是れ一府、しかも五蔵に属せず、故に言う、府に五有りと。


四十難(生理)

四十の難に曰く、経に言う、肝は色を主り、心は臭を主り、脾は味を主り、肺は声を主り、腎は液を主る。鼻は肺の候にして反って香臭を知る、耳は腎の候にして反って声を聞く、その意何んぞや。しかるなり、肺は西方の金なり、金は巳に生ず、巳は南方の火、火は心、心は臭を主る、故に鼻をして香臭を知らしむ。腎は北方の水なり、水は申に生ず、申は西方の金、金は肺、肺は声を主る、故に耳をして声を聞かしむ。


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難経(一難~二十難)

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はじめに

勝手な想像ですが『難経』は当時の医学者の安直本だったのではなかろうかと思っています。「諸説紛々であるがここに挙げた81項目を理解実践すれば 臨床家にとっては充分だ」というふれこみで『難経』はデビューしたのではなかろう かと思っています。本文にはサブタイトルは付けられていませんが初学者の学習を容易にする為、勝手にサブタイトル付きの読み下し文を作ってみました。


一難(脈診:基礎、生理)

一の難に曰く、十二経皆動脈有り、独り寸口を取って五臓六腑死生吉凶之法を決すとは何んの謂ぞや。しかるなり、寸口は脈の大会する、手の太陰の脈動なり。人一呼に脈行くこと三寸、一吸に行くこと三寸、呼吸定息に脈行くこと六寸。人一日一夜に凡て一万三千五百息。 脈行くこと五十度にして身を周る。漏水下ること百刻、栄衛陽に行くこと二十五度、陰に行くこともまた二十五度、一周と為す也。ゆえに五十度にして復た手の太陰に会す、寸口は五蔵六腑の終始する所、ゆえに法を寸口に取る也。


二難(脈診)

ニの難に曰く、脈に尺寸ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、尺寸は脈の大要会なり。関より尺に至って、これ尺の内、陰の治まる所なり。関より魚際に至って、これ寸口の内、陽の治まる所なり。ゆえに寸を分ちて尺となし、尺を分ちて寸となす。ゆえに陰は尺内一寸を得、陽は寸内九分を得。尺寸終始一寸九分。ゆえに尺寸というなり。


三難(脈診:常脈・診断)

三の難に曰く、脈に大過あり、不及あり、陰陽相乗あり覆あり、溢あり、関あり、格ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、関の前は陽の動なり。脈まさに九分に見れて浮なるべし。過るものは法に大過といい、減ずるものは法に不及という。遂んで魚に上るを溢となし、外関内格となす。これ陰乗の脈なり。関以後は陰の動なり、脈まさに一寸に見れて沈なるべし。過るものは法に大過といい、減ずるものは法に不及という。遂んで尺に入るを覆となし、内関外格となす。これ陽乗の脈なり。ゆえに覆溢という。これその真蔵の脈は人病まざれども死す。


四難(脈診:脈状、呼吸)

四の難に曰く、脈に陰陽の法ありとはなんの謂ぞや。しかるなり、呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る。呼吸の間に脾は穀味を受く。その脈、中にあり。浮は陽なり、沈は陰なりゆえに陰陽という。心肺はともに浮、何をもってかこれを別たん。しかるなり、浮にして大散なるものは心なり。浮にして短濇(ショク)なるものは肺なり。腎肝はともに沈、何をもってかこれを別たん。しかるなり、牢にして長なるものは肝なり、これを按じて濡、指を挙ぐれば来ること実なるものは腎なり、脾は中州、ゆえにその脈、中にあり、これ陰陽の法なり。脈に一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽、一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰あり。この如きの言、寸口に六脈ともに動ずることありや。しかるなり、この言は六脈ともに動ずること有るにあらず。いわゆる浮沈、長短、滑濇なり。浮は陽なり、滑は陽なり、長は陽なり、沈は陰なり、短は陰なり、濇は陰なり。いわゆる一陰一陽は脈来ること沈にして滑なるをいう。一陰二陽は脈来ること沈滑にして長なるをいう。一陰三陽は脈来ること浮滑にして長、時に一沈なるをいう。一陽一陰は脈来ること浮にして濇なるをいう。一陽二陰は脈来ること長にして沈濇なるをいう。一陽三陰は脈来ること沈濇にして短、時に一浮なるをいう。各々その経の在る所をもって病の逆順を名づく。


五難(脈診:菽法脈診)

五の難に曰く、脈に軽重ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、初めて脈を持するに三菽の重さの如く皮毛と相得るものは肺の部なり。六菽の重さの如く血脈と相得るものは心の部なり。九菽の重さの如く肌肉と相得るものは脾の部なり。十二菽の重さの如く筋と平らかなるものは肝の部なり。これを按じて骨に至り指を挙ぐれば来ること良きものは腎の部なり。故に軽重というなり。


六難(脈診)

六の難に曰く、脈に陰盛陽虚、陽盛陰虚ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、これを浮べて搊小、これを沈めて実大、ゆえに陰盛陽虚という。これを沈めて搊小、これを浮べて実大、ゆえに陽盛陰虚という。これ陰陽虚実の意なり。


七難(脈状:三陰三陽の四時の脈)

七の難に曰く、経に言う、少陽の至る乍大、乍小、乍短、乍長、陽明の至る浮大にして短、太陽の至る洪大にして長、太陰の至る緊大にして長、少陰の至る緊縮にして微、厥陰の至る沈短にして敦、この六つのものはこれ平脈なりや、はたまた病脈なりや。しかるなり、皆王脈なり。その気いずれの月を以って各々王すること幾日ぞや。しかるなり、冬至の後、甲子を得て少陽王す、復た甲子を得て陽明王す、復た甲子を得て太陽王す、復た甲子を得て太陰王す、復た甲子を得て少陰王す、復た甲子を得て厥陰王す、王すること各々六十日、六六三百六十日以って一歳を成す、これ三陽三陰の旺する時日の大要なり。


八難(病理:腎間の動悸)

八の難に曰く、寸口の脈平にして死するは何んの謂ぞや。しかるなり、諸々十二経脈は皆生気の原に係る。いわゆる生気の原とは、十二経の根本をいうなり。腎間の動気をいうなり。これ五蔵六府の本、十二経脈の根、呼吸の門、三焦の原、一には守邪の神と名づく。ゆえに気は人の根本なり.根絶するときは茎葉枯る。寸口の脈平にして死するものは生気独り内に絶すればなり。


九難(脈状:診断)

九の難に曰く、何を以ってか蔵府の病を別ち知るや。しかるなり、数は府なり、遅は蔵なり、数は則ち熱となし、遅は則ち寒となす、諸陽を熱となし、諸陰を寒となす。ゆえに以って蔵府の病を別ち知るなり。


十難(脈状:一脈十変)

十の難に曰く、一脈十変となるとは何んの謂ぞや。しかるなり、五邪剛柔相い逢うの意なり。たとえば、心脈急甚なるものは肝の邪心を干すなり、心肺微急なるものは胆の邪小腸を干すなり。心の脈大甚なるものは心の邪自ら心を干すなり、心の脈微大なるものは小腸の邪自ら小腸を干すなり。心の脈緩甚なるものは脾邪心を干すなり、心の脈微緩なるものは胃の邪小腸を干すなり。心の脈濇(ショク)甚なるは肺の邪心を干すなり、心の脈微濇(ショク)なるものは大腸の邪小腸を干すなり。心の脈沈甚なるものは腎の邪心を干すなり、心の脈微沈なるものは膀胱の邪小腸を干すなり。五蔵各々剛柔の邪あり、ゆえに一脈をして輙(スナワ)ち変じて十となさしむ。

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