◆五十一難(病理:温・寒)
五十一の難に曰く、病に温を得ることを欲するものあり、寒を得ることを欲するものあり、人を見ることを得んと欲するものあり、人を見ることを得んと欲せざるものあり、しかして各々同じからず。病何れの蔵府に在るや。しかるなり、病寒を得んと欲して、人を見ることを欲する者は病府に在り、病温を得ることを欲して、人を見ることを欲せざる者は病、蔵に在り。何を以もって之を言えば、府は陽なり、陽病は寒を得ることを欲し、又人を見ることを欲す。蔵は陰なり、陰病は温を得ることを欲して、又戸を閉ぢて独り処ることを欲して人の聲を聞くことを悪む。故にもって蔵府の病を別ち知るなり。
◆五十二難(病理:病位)
五十二の難に曰く、府蔵の病を発す根本、等しきや否や。しかるなり、等しからざるなり。何かん。しかるなり、蔵病は止つて移らず、その病、その処を離れず。府病は彷彿、賁嚮し、上下行流し、居処常無し。故に此をもって、蔵府根本同じからざることを知るなり。
◆五十三難(病理:証の伝変)
五十三の難に曰く、経に言う、七伝の者は死し、間蔵の者は生くとは何んの謂ぞや。しかるなり、七伝はその勝つ所に伝え、間蔵はその子に伝うるなり。何をもって之を言えば、たとえば、心病肺に伝え、肺肝に伝え、肝脾に伝え、脾腎に伝え、腎心に伝う。一蔵再び傷れず、故に七伝の者は死すと言うなり。たとえば心病脾に伝え、脾肺に伝え、肺腎に伝え、腎肝に伝え、肝心に伝う。是れ子母相伝えて竟つて、復た始まる。環の端無きが如し、故に生くというなり。
◆五十四難(病理:予後)
五十四の難に曰く、蔵病は治し難く、府病は治し易しとは何んの謂ぞや。しかるなり、蔵病治し難きゆえんのものはその勝つ所に伝うなり。府病治し易きはその子に伝うるなり。七伝間蔵と法を同じうするなり。
◆五十五難(病理:積聚)
五十五難の難に曰く、病に積あり、聚あり、何をもって之を別たん。しかるなり、積は陰気なり、聚は陽気なり、故に陰は沈んで伏し、陽は浮んで動ず、気の積む所を名けて積といい、気の聚る所を聚という。故に積は五蔵の生ずる所、聚は六府の或す所なり。積は陰気なり、その始めて発する常の処有り、その痛み、その部を離れず、上下終始する所あり、左右窮る処の所あり。聚は陽気なり、その始めて発するに根本なし、上下留止する所なし、その痛み、常の処なし、之を聚と謂う。故に是をもって積聚を別ち知るなり。
◆五十六難(病理:五積病の伝変)
五十六の難に曰く、五蔵の積、各々名有りや。何れの月何れの日をもって之を得る。しかるなり、肝の積を名けて肥気という、左脇下に在って覆杯の如く、頭足有り。久しくして愈えざれば人をして咳逆、カイ瘧(マラリア)を発して歳を連ねて己えざらしむ。季夏戊巳の日をもって之を得、何をもって之を言えば、肺病肝に伝う、肝当に脾に伝うべし、脾は季夏適に王ず、王ずるものは邪を受けず、肝復た肺に還さんと欲す、肺肯(アエ)て受けず、故に留結して積をなす。故に知らんぬ、肥気は季夏戊巳の日をもって之を得ることを。心の積を名けて伏梁という、臍の上に起って大さ臂(ヒジ)の如し、上心下に至る、久しくして愈えざれば、人をして煩心病ましむ。秋庚辛の日をもって之を得、何をもって之を言えば、腎病心に伝う、心当に肺に伝うべし。肺は秋をもって適に王ず、王ずるものは邪を受けず、心復た腎に還さんと欲す、腎肯て受けず、故に留結して積をなす、故に知らんぬ、伏梁は秋庚辛の日をもって之を得ることを。脾の積を名けて痞(ヒ;ツカエ)気という、胃脘に在って覆して大さ盤の如し、久しくして愈えざれば、人をして四肢収らず、黄疸を発し、飲食、肌膚とならず。冬壬癸の日をもって之を得、何をもって之を言えば、肝病脾に伝う、脾当に腎に伝うべし、腎は冬をもって適に王ず、王ずるものは邪を受けず、脾復た肝に還さんと欲す、肝肯て受けず、故に留結して積となる。故に知らんぬ、病気は冬壬癸の日をもって之を得ることを。肺の積を名けて息賁という、右の脇下に在って覆して大さ杯の如し。久しくして己えざれば、人をして洒浙として寒熟し、喘欬し、肺壅(ョウ;フサグ)を発す。春甲乙の日をもって之を得、何をもって之を言えば、心病肺に伝う、肺当に肝に伝うべし、肝は春をもって適に王ず、王ずるものは邪を受けず、肺復た心に還さんと欲す、心肯て受けず、故に留結して積となる。故に知らんぬ、息賁は春甲乙の日をもって之を得ることを。腎の積を名けて賁豚という、小腹に発して上心下に至り、豚の状の若く、或は上り、或は下り、時なし。久しくして巳えざれば人をして喘逆して骨痿(ナ)え、少気ならしむ。夏丙丁の日をもって之を得、何をもって之を言えば、脾病腎に伝う、腎当に心に伝うべし、心は夏を以って適に王ず、王ずるものは邪を受けず、腎復た脾に還さんと欲す、脾肯て受けず、故に留結して積となる。故に知らんぬ、賁豚は夏丙丁の日をもって之を得ることを。此れ五積の要法なり。
◆五十七難(病理:泄)
五十七の難に曰く、世に凡そ幾くか有る、皆名有るや。しかるなり、世に凡そ五有り、その名同じからず、胃泄有り、脾泄有り、大腸泄有り、小腸泄有り、大瘕(カ)泄有り、名けて後重という。胃泄は飲食化せず、色黄なり、脾泄は腹脹満し、泄注し、食すれば、即ち嘔吐し逆す。大腸泄は食し巳めば窘(キン:クルシム)迫し、大便の色白く、腸鳴って切痛す。小腸泄は溲して膿血を便し、小腹痛む。大瘕(カ)泄は裏急後重し数々圊(カワヤ)に至って便すること能わず、茎中痛む、此れ五泄の要法なり。
◆五十八難(病理:傷寒・脈診)
五十八の難に曰く、傷寒幾くか有る、その脈変有りや否や。しかるなり、傷寒五有り、中風有り、傷寒有り、湿温有り、熱病有り、温病有り、その苦しむ所各々同じからず。中風の脈は陽浮にして滑、陰濡にして弱、湿温の脈は陽浮にして弱、陰小にして急、傷寒の脈は陰陽倶に盛にして緊濇、熱病の脈は陰陽倶に浮、之を浮べて滑、之を沈めて散濇、温病の脈は諸経に行在して何れの経の動たる事を知らず、その経の所在によって之を取る。傷寒汗出て愈え、之を下して死する者有り、汗出て死し、之を下して愈る者有るに何んぞや。しかるなり、陽虚陰盛は汗出て愈え、之を下せば死す。陽盛陰虚は汗出て死し、之を下せば愈ゆ。寒熱の病、之を候うこと如何ぞや。しかるなり、皮寒熱するものは、皮席に近くべからず、毛髪焦れ、鼻藁(カワキ)て汗することを得ず。肌寒熱するものは、皮膚痛み、唇舌藁れ、汗無し。骨寒熱するものは病安んづる所なく、汗注いで休まず、歯本藁れ痛む。
◆五十九難(病理:狂癲)
五十九の難に曰く、狂癲の病、何をもってか之を別たん。しかるなり、狂疾の始めて発するや臥すこと少くして飢えず、自ら賢を高ぶり、自ら智を弁じ、自ら貴に居るなり、妄りに笑い、歌楽を好み、妄りに行って休まざる是なり。癲疾の始めて発するや、意楽しまず、僵仆直視す。その脈三部陰陽倶に盛なる是なり。
◆六十難(病理:頭痛・心痛)
六十の難に曰く、頭心の病に厥痛有り、真痛有りとは何の謂ぞや。しかるなり、手の三陽の脈、風寒を受け伏留して去らざるもの則ち厥頭痛と名づく。入って脳に連り在するものを真頭痛と名づく。その五蔵の気相干すと厥心痛と名づく、その痛み甚しきこと、ただ心に在って、手足青ゆるものを即ち真心痛と名づく。その真心痛の者は旦に発すれば夕に死し、夕に発すれば旦に死す。
◆六十一難(診察:望聞問切)
六十一の難に曰く、経に言う、望んで之を知る、之を神と謂う。聞いて之を知る、之を聖と謂う。問うて之を知る、之を工と謂う。脈を切して之を知る、之を巧と謂うとは何の謂ぞや。しかるなり、望みて之を知るとはその五色を望み見てもってその病を知るなり。聞いて之を知るとはその五音を聞いてもってその病を別つなり。問うて之を知るとはその欲する所の五味を問うて、その病の起る所、在る所を知るなり。脈を切して之を知るとは、その寸口を診してその虚実を視てもってその病を病むこと何れの蔵府に在ることを知るなり。経に言う、外をもって之を知るを聖といい、内をもって之を知るを神というは此れ之の謂なり。
◆六十二難(経穴:要穴)
六十二の難に曰く、蔵に井栄五有り、府に独り六つ有るは何んの謂ぞや。しかるなり、府は陽なり、三焦は諸陽に行く、故に一兪を置いて名けて原という。府に六あるものは三焦と共に一気なればなり。
◆六十三難(経穴)
六十三の難に曰く、十変に言く、五蔵六府栄合皆井をもって始となすものは何んぞや。しかるなり、井は東方の春なり。萬物の始めて生じ、諸々蚑行(キコウ)し、喘息す、蛸飛蠕動し、当に生ずべきの物、春をもって生ぜずと言うことなし、故に歳の数は春に始まり、日の数は甲に始まる。故に井をもって始となすなり。
◆六十四難(経穴)
六十四の難に曰く、十変に又言う、陰井は木、陽井は金、陰栄は火、陽栄は水、陰兪は土、陽兪は木、陰経は金、陽経は火、陰合は水、陽合は土、陰陽皆同じからず、その意何んぞや。しかるなり、是れ剛柔のことなり。陰井は乙の木、陽井は庚の金、陽井は庚、庚は乙が剛なり。陰井は乙、乙は庚が柔なり。乙は木となす、故に陰井の木と言うなり、庚は金となす、故に陽井の金と言うなり。余は皆此にならえ。
◆六十五難(経穴:井・合)
六十五の難に曰く、経に言う、出る所を井となす、入る所を合となす、その法いかん。しかるなり、出る所を井となすとは、井は東方の春なり、萬物の始めて生ず、故に出る所を井となすなり。入る所を合となすとは、合は北方の冬なり、陽気入蔵す、故に言う入る所を合となすと。
◆六十六難(経穴:原)
六十六の難に曰く、経に言う、肺の原は太淵に出で、心の原は太陵に出で、肝の原は太衝に出で、脾の原は太白に出で、腎の原は大谿に出で、少陰の原は兌骨に出づ。膽の原は丘墟に出で、胃の原は衝陽に出で、三焦の原は陽池に出で、膀胱の原は京骨に出で、大腸の原は合谷に出で、小腸の原は腕骨に出づ。十二経皆兪をもって原となすものは何んぞや。しかるなり、五蔵の兪は三焦の行く所、気の留止する所。三焦の行く所の兪を原となすは何んぞや。しかるなり、斉下腎間の動気は人の生命なり、十二経の根本なり、故に名づけて原という。三焦は原気の別使なり、三気を通行し、五蔵六府に経歴することを主る。原とは三焦の尊号なり。故に止る所を輙(スナワチ)ち原となす。五蔵六府の病ある者は皆その原を取るなり。
◆六十七難(経穴:募・兪)
六十七の難に曰く、五蔵の募は皆陰に在りて、兪は陽に在るは何んの謂ぞや。しかるなり、陰病は陽に行き、陽病は陰に行く、故に募は陰に在り、兪は陽に在らしむ。
◆六十八難(経穴:井栄兪経合・治療)
六十八難に曰く、五蔵六府皆井栄兪経合有り、皆何をか主る所ぞ。しかるなり、経に言う、出る所を井となし、流るゝ所を栄となし、注ぐ所を兪となし、行く所を経となし、入る所を合となす。井は心下満を主り、栄は身熱を主り、兪は体重節痛を主り、経は喘咳寒熱を主り、合は逆気して泄すことを主る。此れ五蔵六府井栄兪経合の主る所の病なり。
◆六十九難(臨床:治療原則)
六十九の難に曰く、経に言う、虚するものは之を補い、実するものは之を泄す。虚せず実せずんば、経をもって之を取るとは何の謂ぞや。しかるなり、虚するものはその母を補い、実するものはその子を瀉す。当に先づ之を補ってしかして後に之を瀉すべし。虚せず実せずんば経をもって之を取るとは是れ正経自ら病を生じて他邪に中らざればなり。当に自らその経を取る、故に言う、経をもって之を取ると。
◆七十難(臨床:刺鍼法)
七十の難に曰く、春夏は刺すこと浅く、秋冬は刺すこと深きは何んの謂ぞや。しかるなり、春夏は陽気上に在り、人の気も亦上に在り。故に当に浅く之を取るべし。秋冬は陽気下に在り、人の気も亦下に在り。故に当に深く之を取るべし。春夏は各々一陰を致り、秋冬は各々一陽を致るとは何んの謂ぞや。しかるなり、春夏は温、必ず一陰を致るとは、初めて針を下すに之を沈めて腎肝の部に至り、気を得て引いて、之を陰に持するなり。秋冬は寒、必ず一陽を致るとは初めて針を内るに浅くして、之を浮べ心肺の部に至り、気を得て推して之を陽に内るなり。是を春夏は必ず一陰を致し、秋冬は必ず一陽を致すと謂うなり。
◆七十一難(臨床:刺鍼法・深浅)
七十一の難に曰く、経に言う、栄を刺すに衛を傷ることなかれ、衛を刺すに栄を傷ることかれとは何の謂ぞや。しかるなり、陽に針するものは針を臥せて之を刺す。陰を刺すものは先づ左手をもって針する所の栄兪の処を摂按して、気散って、乃ち針を内る。是を栄を刺すに衛を傷ることなかれ、衛を刺すに栄を傷ることなかれと謂うなり。
◆七十二難(臨床:補瀉迎随)
七十二の難に曰く、経に言う、能く迎随の気を知って之を調えしむべし、気を調うるの方は必ず陰陽に在りとは何んの謂ぞや。しかるなり、所謂迎随は栄衛の流行、経脈の往来を知るなり。その逆順に随って之を取る、故に迎随という。気を調うるの方は必ず陰陽に在りとはその内外表裏を知ってその陰陽に随って之を調う。故に調気の方は必ず陰陽に在りと曰う。
◆七十三難(臨床:井穴の補瀉)
七十三の難に曰く、諸々の井は肌肉浅薄、気少くして使しむるに足らざるなり、之を刺すこと如何。しかるなり、諸々の井は木なり、栄は火なり、火は木の子、当に井を刺すべきものは栄をもって之を写す。故に経に言う、補うものはもって写をなすべからず、写するものはもって補をなすべからず、これ之の謂なり。
◆七十四難(病理・臨床:取穴)
七十四の難に曰く、経に言う、春は井を刺し、夏は栄を刺し、季夏は兪を刺し、秋は経を刺し、冬は合を刺すものは何んの謂ぞや。しかるなり、春井を刺すものは邪肝にあり、夏栄を刺すものは邪心にあり、季夏兪を刺すものは邪脾にあり、秋経を刺すものは邪肺にあり、冬合を刺すものは邪腎にあり。その肝心脾肺腎而も春夏秋冬に繋るものは何んぞや。しかるなり、五蔵の一病輙(スナワ)ち五有り。仮令ば肝病は色青きものは肝なり、臊臭は肝なり、酸を喜むものは肝なり、呼ることを喜むものは肝なり、泣を喜むものは肝なり。その病衆多にして尽く言うべからず。四時数あって並に春夏秋冬に繋るものなり。針の要妙は秋毫に在るものなり。
◆七十五難(臨床:治療法則)
七十五の難に曰く、経に言う、東方実し、西方虚せば、南方を瀉し、北方を補うとは何んの謂ぞや。しかるなり、金水木火土当に更々相平ぐべし。東方は木なり、西方は金なり、木実せんと欲せば金当に之を平ぐべし、火実せんと欲せば水当に之を平ぐべし、土実せんと欲せば木当に之を平ぐべし、金実せんと欲せば火当に之を平ぐべし、水実せんと欲せば上当に之を平ぐべし。東方は肝なり、即ち知らんぬ肝実することを。西方は肺なり、則ち知らんぬ肺虚することを。南方の火を瀉し、北方の水を補うとは、南方は火、火は木の子なり。北方は水、水は木の母なり、水は火に勝つ、子能く母をして実せしめ、母よく子をして虚せしむ。故に火を写し、水を補い、金をして木を平らぐることを得せしめんと欲するなり。経に曰く、その虚を治すること能はずんば何んぞその余を問わんとはこれ之の謂なり。
◆七十六難(臨床:刺鍼法・補瀉)
七十六の難に曰く、何をか補瀉と謂う、当に捕うべきの時、何れの所より気を取り、当に瀉すべきの時、何れの所より気を置くや。しかるなり、当に補うの時は衛より気を収る、当に之を瀉する時は栄より気を置く。その陽気不足、陰気有餘は当に先づその陽を補って、しかして後にその陰を瀉すべし、陰気不足、陽気有餘は当に先づその陰を補って、しかして後にその陽を瀉すべし。栄衛通行す、これその要なり。
◆七十七難(治療心得)
七十七の難に曰く、経に言う、上工は末病を治し、中工は巳病治すとは何んの謂ぞや。しかるなり、所謂る末病を治すとは肝の病を見ては則ち肝当に之を伝えて脾に与うべきことを知る。故に先づその脾気を実して肝の邪を受くることを得せしむることなし、故に曰く末病を治すと。中工は巳病を治すとは肝の病を見ては相伝うることを暁さず、但一心に肝を治す、故に曰く巳病を治すと。
◆七十八難(臨床:刺鍼法・押手)
七十八の難に曰く、鍼に補瀉有りとは何んの謂ぞや。しかるなり、補瀉の法は必ずしも呼吸出内の針にあらざるなり。針をなすことを知るものはその左を信(モチ)い、針をなすことを知らざるものはその右を信う。当に刺の時にあたって、先づ左手をもって針する所の栄兪の處を厭按して、弾いて之を努まし、爪して之を下す、その気の来ること動脈の状の如くにして針を順にして之を刺す。気を得て因って推して之を内る。是を補という。動じて之を伸ぶる是を瀉と謂う。気を得ずんば乃も與うるに男は外にし、女は内にす、気を得ずんば是を十死不治と謂うなり。
◆七十九難(治療心得)
七十九の難に曰く、経に言う、迎えて之を奪わばいづくんぞ虚なきことを得ん、随って之を済(スク)わばいづくんぞ実なきことを得ん。虚と実とは得るが如く、失うが如し、実と虚とは有るが若く、無きが若しとは何んの謂ぞや。しかるなり、迎えて之を奪うとはその子を写するなり。随って之を済うとはその母を補うなり。仮令ば心病は手の心主の兪を写す、これ謂る迎えて之を奪うものなり。手の心主の井を補う、これ謂る随って之を済うものなり。所謂る実と虚とは牢濡の意なり。気来ること、実牢なるものを得るとなす。濡虚なるものを失うとなす。故に曰く得るが若く、失うが若しと。
◆八十難(臨床:刺鍼法・心得)
八十の難に曰く、経に言う、見るることあって、しかして入れ、見ることあって、しかして出すとは何んの謂ぞや。しかるなり、所謂る見るることあって、しかして入るとは、謂る左手に見るる気来り至って乃も針を内れ、針入って見るる気尽きて乃も針を出す。これ見るることあって、しかして入れ、見るることあって、しかして出すと謂うなり。
◆八十一難(臨床:治療心得)
八十一の難に曰く、経に言く、実を実し、虚を虚し、上足を搊じて有余を益すこと無かれとはこれ寸口の脈なりや、将だ、病自ら虚実有りや、その損益如何ん。しかるなり、これ病なり、寸口の脈を謂うにあらざるなり、病に自ら虚実あるを謂うなり。仮令ば肝実して肺虚す、肝は木なり、肺は金なり、金木当に更々相平ぐべし、当に金木を平ぐることを知るべし。仮令ば肺実して肝虚す、微少の気、針を用いて、その肝を補さずして反って重ねてその肺を実す、故に実を実し、虚を虚し、上足を損じて有余を益すという。此れは中工の害する所なり。