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はじめに

勝手な想像ですが『難経』は当時の医学者の安直本だったのではなかろうかと思っています。「諸説紛々であるがここに挙げた81項目を理解実践すれば 臨床家にとっては充分だ」というふれこみで『難経』はデビューしたのではなかろう かと思っています。本文にはサブタイトルは付けられていませんが初学者の学習を容易にする為、勝手にサブタイトル付きの読み下し文を作ってみました。


一難(脈診:基礎、生理)

一の難に曰く、十二経皆動脈有り、独り寸口を取って五臓六腑死生吉凶之法を決すとは何んの謂ぞや。しかるなり、寸口は脈の大会する、手の太陰の脈動なり。人一呼に脈行くこと三寸、一吸に行くこと三寸、呼吸定息に脈行くこと六寸。人一日一夜に凡て一万三千五百息。 脈行くこと五十度にして身を周る。漏水下ること百刻、栄衛陽に行くこと二十五度、陰に行くこともまた二十五度、一周と為す也。ゆえに五十度にして復た手の太陰に会す、寸口は五蔵六腑の終始する所、ゆえに法を寸口に取る也。


二難(脈診)

ニの難に曰く、脈に尺寸ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、尺寸は脈の大要会なり。関より尺に至って、これ尺の内、陰の治まる所なり。関より魚際に至って、これ寸口の内、陽の治まる所なり。ゆえに寸を分ちて尺となし、尺を分ちて寸となす。ゆえに陰は尺内一寸を得、陽は寸内九分を得。尺寸終始一寸九分。ゆえに尺寸というなり。


三難(脈診:常脈・診断)

三の難に曰く、脈に大過あり、不及あり、陰陽相乗あり覆あり、溢あり、関あり、格ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、関の前は陽の動なり。脈まさに九分に見れて浮なるべし。過るものは法に大過といい、減ずるものは法に不及という。遂んで魚に上るを溢となし、外関内格となす。これ陰乗の脈なり。関以後は陰の動なり、脈まさに一寸に見れて沈なるべし。過るものは法に大過といい、減ずるものは法に不及という。遂んで尺に入るを覆となし、内関外格となす。これ陽乗の脈なり。ゆえに覆溢という。これその真蔵の脈は人病まざれども死す。


四難(脈診:脈状、呼吸)

四の難に曰く、脈に陰陽の法ありとはなんの謂ぞや。しかるなり、呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る。呼吸の間に脾は穀味を受く。その脈、中にあり。浮は陽なり、沈は陰なりゆえに陰陽という。心肺はともに浮、何をもってかこれを別たん。しかるなり、浮にして大散なるものは心なり。浮にして短濇(ショク)なるものは肺なり。腎肝はともに沈、何をもってかこれを別たん。しかるなり、牢にして長なるものは肝なり、これを按じて濡、指を挙ぐれば来ること実なるものは腎なり、脾は中州、ゆえにその脈、中にあり、これ陰陽の法なり。脈に一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽、一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰あり。この如きの言、寸口に六脈ともに動ずることありや。しかるなり、この言は六脈ともに動ずること有るにあらず。いわゆる浮沈、長短、滑濇なり。浮は陽なり、滑は陽なり、長は陽なり、沈は陰なり、短は陰なり、濇は陰なり。いわゆる一陰一陽は脈来ること沈にして滑なるをいう。一陰二陽は脈来ること沈滑にして長なるをいう。一陰三陽は脈来ること浮滑にして長、時に一沈なるをいう。一陽一陰は脈来ること浮にして濇なるをいう。一陽二陰は脈来ること長にして沈濇なるをいう。一陽三陰は脈来ること沈濇にして短、時に一浮なるをいう。各々その経の在る所をもって病の逆順を名づく。


五難(脈診:菽法脈診)

五の難に曰く、脈に軽重ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、初めて脈を持するに三菽の重さの如く皮毛と相得るものは肺の部なり。六菽の重さの如く血脈と相得るものは心の部なり。九菽の重さの如く肌肉と相得るものは脾の部なり。十二菽の重さの如く筋と平らかなるものは肝の部なり。これを按じて骨に至り指を挙ぐれば来ること良きものは腎の部なり。故に軽重というなり。


六難(脈診)

六の難に曰く、脈に陰盛陽虚、陽盛陰虚ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、これを浮べて搊小、これを沈めて実大、ゆえに陰盛陽虚という。これを沈めて搊小、これを浮べて実大、ゆえに陽盛陰虚という。これ陰陽虚実の意なり。


七難(脈状:三陰三陽の四時の脈)

七の難に曰く、経に言う、少陽の至る乍大、乍小、乍短、乍長、陽明の至る浮大にして短、太陽の至る洪大にして長、太陰の至る緊大にして長、少陰の至る緊縮にして微、厥陰の至る沈短にして敦、この六つのものはこれ平脈なりや、はたまた病脈なりや。しかるなり、皆王脈なり。その気いずれの月を以って各々王すること幾日ぞや。しかるなり、冬至の後、甲子を得て少陽王す、復た甲子を得て陽明王す、復た甲子を得て太陽王す、復た甲子を得て太陰王す、復た甲子を得て少陰王す、復た甲子を得て厥陰王す、王すること各々六十日、六六三百六十日以って一歳を成す、これ三陽三陰の旺する時日の大要なり。


八難(病理:腎間の動悸)

八の難に曰く、寸口の脈平にして死するは何んの謂ぞや。しかるなり、諸々十二経脈は皆生気の原に係る。いわゆる生気の原とは、十二経の根本をいうなり。腎間の動気をいうなり。これ五蔵六府の本、十二経脈の根、呼吸の門、三焦の原、一には守邪の神と名づく。ゆえに気は人の根本なり.根絶するときは茎葉枯る。寸口の脈平にして死するものは生気独り内に絶すればなり。


九難(脈状:診断)

九の難に曰く、何を以ってか蔵府の病を別ち知るや。しかるなり、数は府なり、遅は蔵なり、数は則ち熱となし、遅は則ち寒となす、諸陽を熱となし、諸陰を寒となす。ゆえに以って蔵府の病を別ち知るなり。


十難(脈状:一脈十変)

十の難に曰く、一脈十変となるとは何んの謂ぞや。しかるなり、五邪剛柔相い逢うの意なり。たとえば、心脈急甚なるものは肝の邪心を干すなり、心肺微急なるものは胆の邪小腸を干すなり。心の脈大甚なるものは心の邪自ら心を干すなり、心の脈微大なるものは小腸の邪自ら小腸を干すなり。心の脈緩甚なるものは脾邪心を干すなり、心の脈微緩なるものは胃の邪小腸を干すなり。心の脈濇(ショク)甚なるは肺の邪心を干すなり、心の脈微濇(ショク)なるものは大腸の邪小腸を干すなり。心の脈沈甚なるものは腎の邪心を干すなり、心の脈微沈なるものは膀胱の邪小腸を干すなり。五蔵各々剛柔の邪あり、ゆえに一脈をして輙(スナワ)ち変じて十となさしむ。

十一難(病理:結代脈)

十一の難に曰く、経に言く、脈五十動に満たずして一止するは一蔵に気無しとはいずれの蔵ぞや。しかるなり、人の吸は陰に随って入り、呼は陽に因って出づ。今、吸腎に至ること能わず、肝に至って還る、ゆえに知らんぬ一蔵気無しとは腎気まず尽きることを。


十二難(治法:誤治)

十二の難に曰く、経に言う、五蔵の脈已に内に絶するに鍼を用いる者反つてその外を実す。五蔵の脈巳に外に絶するに鍼を用いる者反つてその内を実す、内外の絶は何をもってかこれを別たん。しかるなり、五蔵の脈已に内に絶すとは腎肝の気已に内に絶するなり。而るを医反つてその心肺を補う。五蔵の脈已に外に絶すとはその心肺の脈已に外絶するなり。而るを医反つてその腎肝を補う。陽絶して陰を補い、陰絶して陽を補うこれを実実虚虚。不足を損じ、有余を益すと謂う。このごとくして死するものは医之を殺すのみ。


十三難(五行:色、相生相克)

十三の難に曰く、経に言う、その色を見わしてその脈を得ず、反って相勝の脈を得る者は即ち死し、相生の脈を得る者は病自ら巳ゆ。色と脈と当に参えて相応ずべし、これをなすこといかん。しかるなり、五蔵に五色有って皆面に見わる、亦当に寸口、尺内と相応ずべし。たとえば、色青きはその脈当に弦にして急なるべし、色赤きはその脈浮大にして散、色黄なるはその脈中緩にして大、色白きはその脈浮濇にして短、色黒きはその脈沈濡にして滑なるべし。これいわゆる五色と脈と当に参え相応ずべし。脈数なれば尺の皮膚も亦数、脈急なれば尺の皮膚も亦急、脈緩なれば尺の皮膚も亦緩、脈濇なれば尺の皮膚も亦濇、脈滑なれば尺の皮膚も亦滑。五蔵各々声、色、臭、味あり、当に寸口尺内と相応ずべし、其の応ぜざる者は病むなり。たとえば、色青き、其脈浮濇にして短、もしくは大にして緩なるは相勝となす。浮大にして散、もしくは小にして滑なるを相生となすなり。経に言う、一を知るを下工となす、二を知るを中工となす、三を知るを上工となす。上工は十に九を全うす、中工は十に八を全うす下工は十に六を全うすとはこれこの謂なり。


十四難(脈状:数脈・遅脈)

十四の難に曰く、味に搊至ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、至の脈は一呼に再至を平と曰う。三至を離経と曰う、四至を奪精と曰う。五至を死と曰う、六至を命絶と曰う、此れ至の脈なり。何をか搊と謂う、一呼一至を離経と曰う。再呼一至を奪精と曰う、三呼一至を死と曰う。四呼一至を命絶と曰う、此れ損の脈なり。至脈は下より上り、損脈は上より下るなり。損脈の病たることいかん。しかるなり、一損は皮毛を損ず、皮聚って毛落つ。二損は血脈を損す、血脈虚少にして五蔵六府を栄すること能わず。三損は肌肉を損ず、肌肉消痩して、飲食肌膚となること能わず。四損は筋を損ず、筋緩んで自ら収持すること能わず。五損は骨を損ず、骨痿えて床に起つ事能わず。これに反する者は至脈の病なり。上より下るものは骨萎えて床に起つこと能わざる者は死す。下より上るものは皮聚つて毛落つるものは死す。損を治するの法いかん。しかるなり、其の肺を損ずるものは其の気を益す、其の心を損ずるものは其の栄衛を調う、其の脾を損ずるものは其の飲食を調え其の寒温に適う、其の肝を損するものは其の中を緩うす、其の腎を損するものは其の精を益す、此れ損を治するの法なり。脈一呼に再至、一吸に再至あり、一呼に三至、一吸に三至あり。一呼に四至、一吸に四至あり。一呼に五至、一吸に五至あり、一呼に六至、一吸に六至あり。一呼に一至一吸に一至あり、再呼に一至、再吸に一至あり。呼吸再至あり。脈来るとかくこの如き何を以ってか其の病を別ち知らん。しかるなり、脈来ること一呼に再至、一吸に再至大ならず、小ならず、平と曰う。一呼に三至、一吸に三至、はじめて病を得るとなす、前大後小なるは即ち頭痛目眩。前小後大は即ち胸満ち短気。一呼に四至、一吸に四至は病甚しからんと欲す、脈洪大なるは煩満を苦しむ、沈細なるものは腹中痛む。滑なるものは熱に傷られ、濇なるものは霧露に中てらる。一呼に五至、一吸に五至、其の人当に困すべし、沈細なるものは夜加わり浮大なるは昼加わる。大ならず小ならずんば困すといえども治すべし、其の小大ある者は治し難しとなす。一呼に六至、一吸に六至は死脈となす。沈細なるは夜死し、浮大なるは昼死す。一呼に一至、一吸に一至、名けて損と曰う。人よく行くといえども猶当に床に着くべし、しかるゆえんのものは血気皆不足するが故なり。再呼に一至、再吸に一至は呼吸再至、名けて無魂とと曰う、無魂のものは当に死すべし、人よく行くといえども名けて行戸という。上部に脈有って下部に脈無きは其の人当に吐すべし、吐せざるものは死す。上部に脈無く下部に脈有るは困すといえどもよく害をなすこなし。しかる所以のものはたとえば人の尺あるは樹の根あるが如し。枝葉枯槁すといえども根本将に自ら生ぜんとす。脈に根本有るは人に元気あり、故に死せざることを知る。


十五難(脈状:四季の旺脈)

十五の難に曰く、経に言う、春の脈は弦。夏の脈は鈎。秋の脈は毛。冬の脈は石とこれ王脈なりや、はたまた病脈なりや。しかるなり弦鈎毛石は四時の脈なり。春の脈弦とは肝は東方の木なり万物始めて生じ未だ枝葉あらず、故にその脈来ること濡弱にして長、故に弦という。夏の脈鈎と、心は南方の火なり、万物の茂する所、枝垂れ、葉を布き皆下り曲りて鈎の如し、故に脈来ること疾く、去ること遅し、故に鈎という。秋の脈毛とは、肺は西方の金なり、万物の終る所、草木の華葉皆秋にして落つ、その枝独り在って毫毛の如し、故にその脈来ること軽虚にしてもって浮、故に毛という。冬の脈石は腎は北方の水なり、万物の蔵る所なり、盛冬の時に水凝って石の如し、故にその脈来ること沈濡にして滑、故に石という。これ四時の脈なり。もし変あらばいかん。しかるなり、春の脈は弦、反するものは病となす。何をか反という、しかるなり、その気の来ること実強、これを大過となす、病外に在り。気来ること虚微これを不及といい、病内にあり。気来ること厭々聶々として楡葉(ニレ)を循る如きを平という。益々実にして滑、長竿を循るが如くなるを病という、急にして勁、益々強く、新に張れる弓弦の如くなるを死という、春の脈微弦なるを平という、弦多く胃の気少きを病という、但弦にして胃の気なきを死という、春も胃の気をもって本となす。夏の脈は鈎、反するものは病となす、何をか反すと謂う、しかるなり、その気来ること実強、これを大過と謂う、病外にあり、気来ること虚微なるこれを不及と謂う、病内にありその脈来ること累々として環の如く琅玕(ロウカン)を循るが如きを平という、来って益々数、雞の足を挙ぐるが如くなるものを病と言う前曲り、後居し帯鈎を操るが如くなるを死という。夏の脈は微鈎を平という、鈎多く胃の気少きを病という、但鈎にして胃の気なきを死という、夏も胃の気をもって本となす。秋の脈は毛、反するものは病となす、何をか反と謂う、しかるなり、その気来こと実強なるこれを大過を謂う、病外にあり、気来ること虚微なるこれを不及と謂う、病内に在り。その脈来ること藹藹(アイアイ)として車蓋の如く、こを按ずれば益々大なるを平という。.上ならず、下ならず、雞羽を循るが如くなるを病という、これを按ずれば蕭索(ショウサク:モノサビシイヨウス)として風の毛を吹くが如きを死という。秋の脈は微毛を平という、毛多く胃の気少きを病という、但毛にして胃の気なきを死という、秋も胃の気をもっ本となす。冬の脈は石、反するものは病となす、何をか反という、しかるなり、その気来ること実強なるこれを太過という、病外にあり、気来ること虚微なるこれを不及という、病内に在り、脈来ること上大下兌、濡滑にして雀の啄するが如きを平という。啄々として連属し、その中微(イヤ)しき曲るを病という、来ること索を解くが如く、去ること石を弾くが如きを死という、冬の脈は微石を平といい、石多く胃の気少きを病と曰い、胆石にして胃の気なきを死という。冬も胃の気をもって本となす。胃は水穀の海、四時に稟(ウケ)ることを主る。皆胃の気をもって本となす。これいわゆる四時の変、病死生の要会なり。脾は中州なり、その平和得て見るべからず、衰えて乃ち見るのみ、来ること雀の啄むが如く、水の下漏するが如き、これ脾衰えて見はすなり。


十六難(脈状と病症)

十六の難に曰く、脈に三部九候あり、陰陽あり、軽重あり、六十首あり、一脈変じて四時となる。聖を離るること久遠各自のこれ、その法何をもってかこれを別たん。しかるなり、これその病、内外の証あり。その病これをなすこといかん。しかるなり、たとえば、肝脈を得ては、その外証は潔きことを善み、面青く怒ることをこのむ。その内証は臍の左に動気あり、これを按すれば牢くして、もしくは痛む、その病四肢満ち、閉淋して溲便(ソウベン)難く、転筋す、これあるものは肝なり、これなきものは非なり。たとえば心脈を得てはその外証は面赤く口乾き笑うことをこのむ、その内証は臍の上に動気あり、これを按ずれば牢くして、あるいは痛む、その病、煩心、心痛、掌中熱して啘()す。これあるものは心なり、これなきものは非なり。たとえば脾脈を得ては、その外証は面黄ばみ、噫することを善み、思うことを善み、味を善む。その内証は臍に当って動気あり、これを按ずれば牢くしてもしくは痛む。その病、腹脹満し、食消せず、体重く、節痛み、怠堕、臥すことを嗜み、四肢収らず。これあるものは脾なり、これなきものは非なり。たとえば肺脈を得ては、その外証は面白く、嚏(テイ:クシャミ)することを善み、悲愁して楽しまず、哭せんと欲す。その内証は臍の右に動気あってこれを按ずれば牢くして、もしくは痛む、その病、喘、欬()し、洒浙として寒熱す、これあるものは肺なり、これなきものは非なり。たとえば腎脈を得ては、その外証は面黒く、善んで恐れ、欠す、その内証は臍下に動気あってこれを按ずれば牢くしてもしくは痛む、その病、逆気し、小腹急痛し、泄して、しかも下重し、足脛寒えて逆す、これあるものは腎なり、これなきものは非なり。
 

十七難(病症と脈状)

十七の難に曰く、経に言う、病んで或は死することあり、或は治せざれども自ら愈えるあり、或は年月は連ねて巳えず、その死生存亡脈を切してこれを知るべきことありや。しかるなり、尽く知るべし。診するに病もし目を閉ぢて人を見ることを欲せざる者は、脈当に肝脈強急にして長なることを得べし、しかるに反って肺脈浮短にして濇を得る者は死す。病もし目を開いて渇し、心下牢き者は脈当に緊実にして数を得べし、反って沈濇にして微を得る者は死す。病もし吐血し、また鼽衂する者は脈当に沈細なるべし、しかるに反って浮大にして牢なる者は死するなり。病もし譫言妄語せば身当に熱あり、脈当に洪大なるべし、しかるを反って手足厥逆し脈沈細にして微なる者は死するなり。病もし太腹にして洩するものは脈当に微細にして濇なるべし、反って緊大にして滑なる者は死するなり。


十八難(脈診:三部九候診)

十八の難に曰く、脈に三部あり、部に四経あり、手に太陰、陽明あり、足に太陽、少陰あり、上下の部となるは何の謂ぞや。しかるなり、手の太陰、陽明は金なり、足の少陰、太陽は水なり、金は水を生ず、水の流るるは下行して、上ること能わず、故に下部に在るなり。足の厥陰、少陽は木なり、手の太陽、少陰の火を生ず、火炎上行して下ろこと能わず、故に上部となる。手の心主、少陽の火は足の太陰、陽明の土を生ず、土は中宮を主る、故に中部にあり、これ皆五行子母更々相生養するものなり。脈に三部九候あり、各々何をか之を主る。しかるなり、三部は寸関尺なり、九候は浮中沈なり。上部は天に法り、胸以上頭に至るまで疾あることを主るなり。中部は人に法り、鬲(レキ)より、以下斉に至って疾あることを主るなり。下部は地に法って斉より以下足に至るまでの疾あることを主るなり。審にして之に刺すものなり。人の病に沈滞久しく積聚することあり、脈を切して之を知るや。しかるなり、診するに右脇にあって積気あるは肺脈の結を得、脈結すること甚だしきときは積も甚だし、結微なるときは、気も微。診するに肺脈を得ず、右脇に積気あるものは何ぞや。しかるなり、肺脈見れずといえども、右手の脈当に沈伏すべし。その外の痼疾も法と同じくするや。はたまた異なるや。しかるなり。結は脈来去の時に一止して常数なきを吊けて結というなり。伏は脈筋下に行くなり浮は脈肉上にあって行くなり、左右表裏の法、皆此の如し。たとえば、脈結伏するもの、内に積聚無く、脈浮結するもの外に痼疾無く、積聚あって脈結伏せず、痼疾あって脈浮結せざるを脈病に応ぜず、病脈に応ぜずとなす、これを死病と為すなり。


十九難(脈診:男女の脈状)

十九の難に曰く、経に言う。脈に逆順あり、男女恒あり、しかして反するものは何んの謂ぞや。しかるなり、男子は寅に生ず、寅は木となす、陽なり、女子は申に生ず、申は金となす、陰なり。故に男脈は関上にあり、女脈は関下にあり。これをもって男子の尺脈は恒に弱く、女子の尺脈は恒に盛んなり、これその常なり。反するものは男は女脈を得、女は男脈を得るなり。その病たることいかん。しかるなり、男が女脈を得るを不足となす、病内に在り、左に之を得れば病左にあり、右に之を得れば病右にあり。脈に隋ってこれを言う。女、男脈を得るを太過となす、病四肢に在り、左にこれを得れば病左にあり、右にこれを得れば病右にあり、脈に隋ってこれを謂う。これこの謂なり。


二十難(脈診:陰陽相乗)

二十の難に曰く、経に言う、脈に伏匿あり、何れ蔵に伏匿するを伏匿と言うや。しかるなり、陰陽更々相乗じ、更々相伏するを謂う。脈陰部に居して反って陽脈を見るものを、陽、陰に乗ずとなすなり。脈時に沈濇にして短と雖も、これを陽中の伏陰と謂うなり。脈陽部に居して反って陰脈を見るものを、陰、陽に乗ずとなすなり、脈時に浮滑にして長なりと雖も、これを陰中の伏陽というなり。重陽のものは狂し、重陰のものは癲す、脱陽のものは鬼を見、脱陰のものは目盲ゆ。