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大過不及を調和させる鍼の刺鍼技術として補瀉がよく論じられますが私は補法に関しては今までの考え方に些か疑問を持っています。


元々補瀉論は経験に裏打ちはされているものの虚実を計量したり測定したりすることが現在の科学力ではまだ不可能です。従って鍼の刺し方や刺し過ぎによって体力が消耗した、つまり虚したと言う状態はある程度説明がつきますがいわゆる「補瀉」に関して実際に気が出入りしたかどうかを客観的に知る手段は今のところないのです。


特に補法に関しては飲食も出来ないほど非常に大きく虚損している患者を治療していて実感するのですがそういう気血が大きく不足している場合にいわゆる補法をいくら施しても気血の絶対量がその場で即座に増大したという実感が私には湧かないのです。多くの場合鍼治療を続けていく内に食事が摂れるようになって初めて気血の増加を診るのです。このことはこういう特別の場合に限らず全ての場合に同じ事が言えるのではないかというのが私の考えです。


つまり術者が超人的な技能を持ち合わせてでもいない限り外から足りない気を必要十分に補うことはなかなか難しい


普通、補法と言って行っている手技は外から足りない気を加えているのではなく患者の体内で「余裕のあるところから偏って足りなくなっているところに気を補う」ように仕向ける行為だと考えるのが妥当ではないかと思うのです。


もちろん自分は患者に気を送り込むことが出来ると主張する治療家が多くいることも承知していますしそれらの治療家の言を否定する気は全くありません。しかし私と同じ様な平凡な能力の鍼灸師は患者の状態を大きく変えてしまうほどの大量の気を外から送り込むことは不可能でしょう。


しかし私をはじめ多くの普通の鍼灸師が病苦に苦しむ患者を数多く救っているのも事実です。では気を外から充分に捕えなくても救えるのは何故かという事ですが、気血の絶対量が患者にある程度あれば体の内で「足りなくなっているところに足りているところから供給する」という行為が適切且つ速やかに出来さえすれば患者のかかえる問題は解決するということです。


つまり「経穴ゲートスイッチ理論」で言うところの経穴(スイッチ)に刺鍼することで交会部(ゲート)が作動し「臓腑経絡奇経における気血の流通の不具合の調整が為された」ときの状態を虚損している臓腑経絡奇経側から見れば「気血が補われた」と見えるということではないでしょうか。となればこのことは瀉法においても一部を除いては同じ事が言えることになります。


つまり「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」ことが瀉法であると考えられます。またそれと異なる一部とは刺絡など明らかに体外に血を出す手技などです。


結論を言えばいわゆる補法によって気血が捕われるという従来の考え方を完全に否定はしませんが仮に気血の絶対量がある程度あれば外から思い通りに補えなくても気血の調整は充分可能で「特に補瀉の技法に区別はなく適切に選穴し鍼を正確に経穴に刺せば自動的にその生体の都合の良いようにゲートが稼動し大過不及を是正することが出来る」ということになります。


ちなみに気血の絶対量は胃の気の脈を診ることで判断できます。
また良い治療効果を得ようと思えばまず適切に選穴することが大切ですがどのような鍼を使うかによっても術者が動かせる気の量は随分と違ってきます。術者はどのように気を動かすか明確に目的を持って選穴し鍼を選び施術すべきです。