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正邪同一論
(仮説)


「自動調整機能」の維持に重要な働きをしている気は一般的概念では正気と邪気が存在すると考えられています。しかし私自身は正気と邪気の区別はなく存在するのは気ひとつであると考えています。つまりその大過不及(多過ぎたり少な過ぎたり)によってその及ぼす影響が違うだけだと考えています。


具体的に言えば大過の時は気が多過ぎて正常に機能できず人体に不調和を起こします。このような状況にあるところの気を一般には別の物として邪気(実邪)と呼んでいますが元々は正気と呼ばれる気と何ら代わりのないものだと考えます。また不及の時も気が足りないだけなのですが足りないことで起こっている状況をあたかも何か特別の物が存在して起こしているように考えて虚性の邪などと区別したりしていますがこれも全く同じ気の現象のひとつだと考えます。


つまり一般に言う正気とは気が人体に都合の良いように働いている時の気の状態を指して言っていると考えます。したがって正気も邪気もどちらも全く同じ物でその人体への働きかけの違いによって呼び方を変えているだけと考えています。



これは、酸素を例にとって考えれば理解しやすいと思います。人間にとって酸素は生きていくうえで無くてはならないものですが高濃度の酸素を長時間吸うと肺を大きく損なってしまいます。人間にとってちょうど良い酸素の濃度は100%ではありません。多ければ多いほど良いというわけではないのです。また低酸素状態が長く続くのも危険です。気もこれと同じようなことが言えると私は考えているのです。



ところでここで論じてきた邪気は厳密に言えば内邪のことです。『内因なければ外邪入らず』という言葉がありますが、では内因とはどんなものかを一言でいえば『気の大過不及の状態が体内に起っている状態』を指します。つまり内因があれば元々それだけで病症を発現し易くなっているところに更に体内の気のバランスを崩すようなストレスが外から加わると病症も更に出易くなります。また既に在る病症は更に増悪する可能性が出てくるということになります。


バランスの崩し方は『更に大きく大過不及が進む』場合と『体内の気の総量が更に減少してしまう』場合と『その二つが同時に起こる』場合があります。


『内因なければ外邪入らず』というのは体内においても元々程度の差はあれ大過不及があったり気の総量が少なかったりすると外界の刺激によって更にバランスを崩し病症が出易くなるということであって、もし体内において大過不及がなかったり仮にあっても気の総量が十分あれば病症は出にくいということをあらわしています。