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プラセボはニセ薬を処方するだけがプラセボではないというおはなし。

もう随分前のことだがとても神経質なお婆ちゃんが患者さんでおられました。
初診日
受診した訳を問うと眼が悪いという。
どんな風に悪いのかを詳しく聞くとお婆ちゃんが不安に思っている症状は「閃輝暗点」という偏頭痛などの前駆症状だと判った。強い精神的なストレスがあると出ることがある。突然目の前が真っ暗になって閃光が走ったりする症状だ。
聞いていて「ああ・・・閃輝暗点だな・・・」と思ったがお婆ちゃんの不安は止まらない。
ここ2週間ほど前から突然目の前が暗くなったりビカビカッと目の前を閃光が走ったりすることが何回かある。不安になって近くの眼科を直ぐに受診したが異常ないといわれた。眼には異常がないと言われたが症状は相変わらず繰り返すので違う眼科を受診したが診断は同じで結局眼科を3箇所受診した。しかし、どこも自分の具合の悪さの原因を突き止めてくれなかった。西洋医学では判らなかったがもしかしたら東洋医学なら解決するかもしれないと思っていると怒涛のような勢いでまくしたてた。

話を聞いているうちにお婆ちゃんの気質が少し呑み込めてきた。はなから「閃輝暗点」と言う症状ですねと持って行っても「はいそうですかそれなら良かった」とは行きそうにない。行きそうにない理由のひとつは僕にはカリスマ性がない。今まで受診した眼科の先生方にもそれはなかったのだろう。カリスマ性があればこのての患者さんは案外簡単だ。

しかし、もしあったとしてもそれこそ僕は絶対使いたくない。カリスマ性に頼るとある意味楽チンになるのだが手が落ちる(鍼灸師にはプチカリスマが結構います)。当時の僕はまだ手が落ちるほど高みにも辿り着いていないからカリスマ性は求めたくなかった。勿論、カリスマ性がなくっても「閃輝暗点」は鍼で治せる。治せるが原因が精神的なものだからそこを解決していかないと症状は繰り返す。繰り返せば鍼の効果は一時凌ぎとしか思われかねない。それは嫌だ。鍼は心療内科的な領域も得意とするところで一時凌ぎなんかではない。だがその効果を得るには患者さんとの信頼関係を築いていかなければならない。今回のように急ぎ結果を求められている時にゆっくり信頼関係を作っていく猶予がない。早く楽にしてあげたい。ここでお婆ちゃんを満足させることが出来たらその先はゆっくり心療内科的な治療を組み立てることが出来るはずだ。だから今、目の前のお婆ちゃんが納得のいくことを直ぐに提供しなければならないと思った。

3箇所の病院の見解を踏まえてのことだが眼に異常がないとしたらストレスが原因の「閃輝暗点」だと判断するのが妥当だからお婆ちゃんには何か身の回りにストレスを感じることがあるに違いない。しかし、お婆ちゃんと僕の間にそういう突っ込んだ話をするほど今はまだ信頼関係が作れていない。おそらくそのようなカウンセリングを今始めてもそれこそ「私は眼を治してもらいに来たのに身の内話を相談に来たのではない!」と激怒されかねない。お婆ちゃんは眼の病気だと思い込んでいるから。それでは救えるものも救えなくなる。そういうアプローチは目の前の問題を解決してからだと思った。

方法はひとつある。僕以外の人物でカリスマ性のある臨床家を探すかそれに値するような臨床家をカリスマにしたててお婆ちゃんの意識に刷り込む。そうすると同じような診断が出ても今までと違った受け止め方をお婆ちゃんがしてくれる可能性が期待できる。出来れば世間一般にも評判の良い眼科医が居られればそれに越したことはない。
実はこの近隣にそういう眼科医がひとり居られる。M先生だ。
「お婆ちゃん。M先生て知っと(知ってますかの方言)?」
「はあ。名医だと聞いたことはあるけど・・・」
「そう。名医とですよ。もう近隣どころか県外からも沢山M先生を頼って患者さんが絶えないとですよ。」
「・・・」
「M先生の病院はお婆ちゃんの所からはちょっと遠かばってん診てもらうがと(がと=方言で価値あることの意)あると思いますよ」
「とにかくスゴカ先生けん」
「元々M先生はあの町の国立病院の先生だったとやけど先生が独立開業される時に町の人達が先生と縁を切りたくなくって町ぐるみで運動して先生の病院を国立病院の真向かいに作ってもらったとですよ」
「へぇ・・・そんなに凄か先生ですか?」
「はい。僕も尊敬しています」
「医学の分野は違うけれど臨床家として見習うべきところがあって、M先生は僕のお手本とです」
「この前も手遅れ寸前の患者さんを診てもらったとけどお陰で失明せずに済んだとですよ」
「先生、是非、M先生に診てもらいたか!」

勿論、お婆ちゃんは翌日には25km離れたM先生の病院を受診しました。
ここからがお話の本題。

お婆ちゃんがM先生を受診して後、晴れ晴れとした顔で僕のところに治療にみえた。
「どうでした」
「はあ!M先生に診てもろうたら、もう直ぐに病名が判りました。さすが名医です!おまけにちゃんと病名をメモまでしてくれました」
「ほう!病名がつきましたか?!」
「ほら。これ!」

お婆ちゃんが差し出した小さな紙切れを手にとってそこに書かれた文字を読んだ。

「閃」「輝」「暗」「点」・・・「閃輝暗点」

(病名?!症状じゃん!)
そう、これは最初に述べたように「突然目の前が真っ暗になって閃光が走ったりする」症状名で病名ではない。

患者さんの心理として大した症状でなくても病名が判らないと不安になる。

実際、症状はあるわけだから病院で検査して「異常なし」と言われても喜べるはずがない。医師の説明が足りない。確かに西洋医学的に診れば「異常なし」だが正しくは「あなたの訴えている症状の原因が何であるか色々検査をして調べましたが特に異常はありませんでした。だからあなたが心配しているような重い病気の心配はまずありませんからご安心ください。」と長たらしく解説しないと安心出来ない患者さんも多い。
患者さんの気質によっては医師との信頼関係がしっかりあれば「異常なし」と言われるだけで十分な方もあるにはあるが症状が消えないと不安は取り除けないことの方が多い。

お婆ちゃんもそうだった。

M先生が
「お婆ちゃん。お婆ちゃんの眼は大丈夫だよ。これはね閃輝暗点と言ってね。眼が見えなくなることもないし気分を和らげていれば出なくなると思うからその為のお薬出しときましょうね。気持ちが和らぐお薬ね。」

「センキアンテン…?」

「そう、閃輝暗点」

そう言ってM先生は手元にあったメモ用紙に「閃輝暗点」と書いてお婆ちゃんに手渡した。お婆ちゃんが閃輝暗点なんて医学用語を知る由もなくてっきりM先生が自分の症状の原因となる病気をみつけてくれたと思い込んでしまった。おまけにマイナートランキライザーを処方されたので睡眠が充分に取れたお陰でお婆ちゃんの不安は吹っ飛んでしまって症状も消えてしまった。以後お婆ちゃんが亡くなるまでの25年間、閃輝暗点の症状は一度も出なかった。

M先生は凄いと思う。
こういう症例の時、東洋医学ならその症状が何故起こっているかを説明することができる。しかし西洋医学でははっきりとした形ある証拠(検査結果など)がない限り推測ではものを言わない。ましてほかの科目なら尚更だ。
お婆ちゃんがM先生以前に受診した眼科医の診立てが間違っていたのではないけれどお婆ちゃんが求めていたものを返せていなかった。M先生はそれが判っているからお婆ちゃんを救うことができた。
お婆ちゃんは診察を受けて病名が判ればこの苦しみから抜け出せると強く思っていたに違いない。これはお婆ちゃんに限らず多くの患者さんが病名を告げられると治療の目途が立ったと思ってしまう。もちろん病気によっては告知されるとショックを受けるような深刻な病気もあるがそれ以外だと病名がつくと根拠のない安心感が生まれることも多い。お婆ちゃんの場合は病名ではないがM先生が「閃輝暗点だね」と言った途端、病名がやっと判ったこれで治療の目途が立ったと思ってしまった。実はM先生は一言も「閃輝暗点」病ですとは言っていないのだが専門用語を知らないお婆ちゃんはそれがてっきり病名だと思い込んでしまった。おそらくM先生にとってはそれは計算づくのことだったと思う。

これもひとつのプラセボ効果だ。M先生は臨床家としての技術も素晴らしいのだが患者さん心理を良く読み取って結果を導くことにも長けておられるので患者さんからの信頼がとてもあついのだ。