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臨床経絡

「経穴ゲートスイッチ理論」に基づいた臨床現場で役立つ経絡治療の紹介

沢山の東洋医学の理論があり、それを学校で学びますがどのように運用するかまでは教えてくれません。「経穴ゲートスイッチ理論」を理解すれば知識が臨床に活かせるようになります。

ここでは「入門」「症例集」「臨床ひろば」「異論な医論」の4つのテーマに分けて紹介しています。

異論な医論

それって…病名!?(プラセボ)

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プラセボはニセ薬を処方するだけがプラセボではないというおはなし。

もう随分前のことだがとても神経質なお婆ちゃんが患者さんでおられました。
初診日
受診した訳を問うと眼が悪いという。
どんな風に悪いのかを詳しく聞くとお婆ちゃんが不安に思っている症状は「閃輝暗点」という偏頭痛などの前駆症状だと判った。強い精神的なストレスがあると出ることがある。突然目の前が真っ暗になって閃光が走ったりする症状だ。
聞いていて「ああ・・・閃輝暗点だな・・・」と思ったがお婆ちゃんの不安は止まらない。
ここ2週間ほど前から突然目の前が暗くなったりビカビカッと目の前を閃光が走ったりすることが何回かある。不安になって近くの眼科を直ぐに受診したが異常ないといわれた。眼には異常がないと言われたが症状は相変わらず繰り返すので違う眼科を受診したが診断は同じで結局眼科を3箇所受診した。しかし、どこも自分の具合の悪さの原因を突き止めてくれなかった。西洋医学では判らなかったがもしかしたら東洋医学なら解決するかもしれないと思っていると怒涛のような勢いでまくしたてた。

話を聞いているうちにお婆ちゃんの気質が少し呑み込めてきた。はなから「閃輝暗点」と言う症状ですねと持って行っても「はいそうですかそれなら良かった」とは行きそうにない。行きそうにない理由のひとつは僕にはカリスマ性がない。今まで受診した眼科の先生方にもそれはなかったのだろう。カリスマ性があればこのての患者さんは案外簡単だ。

しかし、もしあったとしてもそれこそ僕は絶対使いたくない。カリスマ性に頼るとある意味楽チンになるのだが手が落ちる(鍼灸師にはプチカリスマが結構います)。当時の僕はまだ手が落ちるほど高みにも辿り着いていないからカリスマ性は求めたくなかった。勿論、カリスマ性がなくっても「閃輝暗点」は鍼で治せる。治せるが原因が精神的なものだからそこを解決していかないと症状は繰り返す。繰り返せば鍼の効果は一時凌ぎとしか思われかねない。それは嫌だ。鍼は心療内科的な領域も得意とするところで一時凌ぎなんかではない。だがその効果を得るには患者さんとの信頼関係を築いていかなければならない。今回のように急ぎ結果を求められている時にゆっくり信頼関係を作っていく猶予がない。早く楽にしてあげたい。ここでお婆ちゃんを満足させることが出来たらその先はゆっくり心療内科的な治療を組み立てることが出来るはずだ。だから今、目の前のお婆ちゃんが納得のいくことを直ぐに提供しなければならないと思った。

3箇所の病院の見解を踏まえてのことだが眼に異常がないとしたらストレスが原因の「閃輝暗点」だと判断するのが妥当だからお婆ちゃんには何か身の回りにストレスを感じることがあるに違いない。しかし、お婆ちゃんと僕の間にそういう突っ込んだ話をするほど今はまだ信頼関係が作れていない。おそらくそのようなカウンセリングを今始めてもそれこそ「私は眼を治してもらいに来たのに身の内話を相談に来たのではない!」と激怒されかねない。お婆ちゃんは眼の病気だと思い込んでいるから。それでは救えるものも救えなくなる。そういうアプローチは目の前の問題を解決してからだと思った。

方法はひとつある。僕以外の人物でカリスマ性のある臨床家を探すかそれに値するような臨床家をカリスマにしたててお婆ちゃんの意識に刷り込む。そうすると同じような診断が出ても今までと違った受け止め方をお婆ちゃんがしてくれる可能性が期待できる。出来れば世間一般にも評判の良い眼科医が居られればそれに越したことはない。
実はこの近隣にそういう眼科医がひとり居られる。M先生だ。
「お婆ちゃん。M先生て知っと(知ってますかの方言)?」
「はあ。名医だと聞いたことはあるけど・・・」
「そう。名医とですよ。もう近隣どころか県外からも沢山M先生を頼って患者さんが絶えないとですよ。」
「・・・」
「M先生の病院はお婆ちゃんの所からはちょっと遠かばってん診てもらうがと(がと=方言で価値あることの意)あると思いますよ」
「とにかくスゴカ先生けん」
「元々M先生はあの町の国立病院の先生だったとやけど先生が独立開業される時に町の人達が先生と縁を切りたくなくって町ぐるみで運動して先生の病院を国立病院の真向かいに作ってもらったとですよ」
「へぇ・・・そんなに凄か先生ですか?」
「はい。僕も尊敬しています」
「医学の分野は違うけれど臨床家として見習うべきところがあって、M先生は僕のお手本とです」
「この前も手遅れ寸前の患者さんを診てもらったとけどお陰で失明せずに済んだとですよ」
「先生、是非、M先生に診てもらいたか!」

勿論、お婆ちゃんは翌日には25km離れたM先生の病院を受診しました。
ここからがお話の本題。

お婆ちゃんがM先生を受診して後、晴れ晴れとした顔で僕のところに治療にみえた。
「どうでした」
「はあ!M先生に診てもろうたら、もう直ぐに病名が判りました。さすが名医です!おまけにちゃんと病名をメモまでしてくれました」
「ほう!病名がつきましたか?!」
「ほら。これ!」

お婆ちゃんが差し出した小さな紙切れを手にとってそこに書かれた文字を読んだ。

「閃」「輝」「暗」「点」・・・「閃輝暗点」

(病名?!症状じゃん!)
そう、これは最初に述べたように「突然目の前が真っ暗になって閃光が走ったりする」症状名で病名ではない。

患者さんの心理として大した症状でなくても病名が判らないと不安になる。

実際、症状はあるわけだから病院で検査して「異常なし」と言われても喜べるはずがない。医師の説明が足りない。確かに西洋医学的に診れば「異常なし」だが正しくは「あなたの訴えている症状の原因が何であるか色々検査をして調べましたが特に異常はありませんでした。だからあなたが心配しているような重い病気の心配はまずありませんからご安心ください。」と長たらしく解説しないと安心出来ない患者さんも多い。
患者さんの気質によっては医師との信頼関係がしっかりあれば「異常なし」と言われるだけで十分な方もあるにはあるが症状が消えないと不安は取り除けないことの方が多い。

お婆ちゃんもそうだった。

M先生が
「お婆ちゃん。お婆ちゃんの眼は大丈夫だよ。これはね閃輝暗点と言ってね。眼が見えなくなることもないし気分を和らげていれば出なくなると思うからその為のお薬出しときましょうね。気持ちが和らぐお薬ね。」

「センキアンテン…?」

「そう、閃輝暗点」

そう言ってM先生は手元にあったメモ用紙に「閃輝暗点」と書いてお婆ちゃんに手渡した。お婆ちゃんが閃輝暗点なんて医学用語を知る由もなくてっきりM先生が自分の症状の原因となる病気をみつけてくれたと思い込んでしまった。おまけにマイナートランキライザーを処方されたので睡眠が充分に取れたお陰でお婆ちゃんの不安は吹っ飛んでしまって症状も消えてしまった。以後お婆ちゃんが亡くなるまでの25年間、閃輝暗点の症状は一度も出なかった。

M先生は凄いと思う。
こういう症例の時、東洋医学ならその症状が何故起こっているかを説明することができる。しかし西洋医学でははっきりとした形ある証拠(検査結果など)がない限り推測ではものを言わない。ましてほかの科目なら尚更だ。
お婆ちゃんがM先生以前に受診した眼科医の診立てが間違っていたのではないけれどお婆ちゃんが求めていたものを返せていなかった。M先生はそれが判っているからお婆ちゃんを救うことができた。
お婆ちゃんは診察を受けて病名が判ればこの苦しみから抜け出せると強く思っていたに違いない。これはお婆ちゃんに限らず多くの患者さんが病名を告げられると治療の目途が立ったと思ってしまう。もちろん病気によっては告知されるとショックを受けるような深刻な病気もあるがそれ以外だと病名がつくと根拠のない安心感が生まれることも多い。お婆ちゃんの場合は病名ではないがM先生が「閃輝暗点だね」と言った途端、病名がやっと判ったこれで治療の目途が立ったと思ってしまった。実はM先生は一言も「閃輝暗点」病ですとは言っていないのだが専門用語を知らないお婆ちゃんはそれがてっきり病名だと思い込んでしまった。おそらくM先生にとってはそれは計算づくのことだったと思う。

これもひとつのプラセボ効果だ。M先生は臨床家としての技術も素晴らしいのだが患者さん心理を良く読み取って結果を導くことにも長けておられるので患者さんからの信頼がとてもあついのだ。

プラセボ(ニセ薬)

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プラセボとはニセ薬のことだ。ニセ薬というと患者をだまして暴利を貪る悪徳医者の道具みたいに思ってしまう人も多いかもしれないが実はそうではなく医療技術の中でも高等技術に入る。医師と患者の間に確固とした信頼関係が成り立っていなければならない。この信頼関係は医師の資質によって得られるものだがそれには高い技術(話術や人間性など)が必要だ。 患者さんの症状の中には主に精神的な要素によって引き起こされているものも少なくない。そういう場合に適切なカウンセリングがなされると症状が軽減したり消失したりすることも多い。しかし中には何らかの具体的な物理的アプローチ(投薬や施術など)がないと治療を施されたと実感できない患者さんもいる。このような時には例えばニセ薬が有効に働くことがある。これは患者を騙していることには違いないが患者が望んでいる状態(症状の軽減や消失)を実現するのに有効だ。もちろん当たり前のことだが副作用はゼロだ。しかしその有効性を実現するためには患者と医師との間にしっかりとした信頼関係が築かれていなければならない。 プラセボが旨くいくと不必要な投薬が防げるので薬害の心配もない、患者の経済的負担もない、医療費の節約にもつながる。しかし現実はプラセボは今の医師には使いたくても使えない。 もし患者にプラセボを行使しようとする。乳糖などをあたかも本物の薬の様に分封して処方したとする。患者は調剤薬局で服薬指導を受ける時に薬剤師から「○○さん、あなたが処方されたのは乳糖です。特に治療薬が必要ないのでとりあえず毒にも薬にもならない安全なものを出しておきます。もちろん副作用は特にありません。」と説明されて「ああ、良かった」と喜ぶ患者がいるだろうか。騙されたと医師を恨みこそすれ自分のことを良く診てくれて有難いと感謝する者などいないだろう。 だから現在の臨床現場ではプラセボは使いたくても使えない。使わないから臨床医の話術は習熟度を増さないので患者を言葉によって導けない。昔の町医者は巧妙に使っていたのだが。情報公開の悪影響のひとつ。情報公開をして患者が不利益を得てしまっている。何でも患者が知る権利があるというのはこういうことにもつながる。しかしこういうことになったのには一部の医者に不逞の輩がいて自分の利益のために制度(国民皆保険)を悪用したりするので「性善説的」に作られていた制度が徹底的に「性悪説的」に改正されてきた結果だ。良心ある医師が医師の自由な判断で最小限の負担(患者負担・国費負担)ですむような医療が計画できなくなってしまった。

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ホメオスタシス…生体恒常性

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鍼灸ってどんなものに効くのかと問われればまずその効果として挙げるとしたら「自然治癒力を高める作用」だと思う。自然治癒力は正確にはホメオスタシス(生体恒常性)と言うべきか。
ところで一般にこれらの言葉から連想するのは「自力で元のからだに戻る力」だろう。それが叶わないときに患者さんは治療を求めることになる。

さて治療というと患者さんの立場から言えば元の健康な状態に戻すことが一番の目的だと思うのは極自然なことだが現実はそうならない場合も多い。臨床の現場では完全に元の状態に戻らないものも多いのだ。特に関節など運動器疾患にはその傾向が強い。足関節捻挫の場合伸びた腱は一般的に伸びたままにするしかないし多少断裂していてもそのままだ。それを手術によって整形しようとすれば手術によって傷つけた部分のほうが本来の怪我よりも大きくなってしまう。老化現象から起こってくるものもそうだ。

個人差はあるが元々人間は20歳辺りから成長が止まり後は壊れる一方なのでそれは特別なことではない。若い頃は徐々に緩慢に壊れていっているのに気付かないだけだ。80歳になるまで自分の衰えを自覚しないような人も中にはいる。だが体は確実に壊れつつある。決して元の様にはならない転機が繰り返しやってくる。だからといって悲観的になっているのではない。医療によって患者さんの人生をより充実したものにするお手伝いを成功させるにはこの現実を受け入れてもらうことがとても大切なのでこの話なくして医療は語れないからだ。

ところで自分ではホメオスタシスを「自動調整機能」と訳すべきだと思っている。治癒力ではなく調整力だ。元の姿に戻すのではなく今一番良い姿に調整する能力だ。だから患者さんの望んでいることと違ってくることも多い。
しかしこの「自動調整能力」は本当にすごい。からだの色々な状況に応じて最適の環境を作り出すことができる仕組みだ。しかし最適な環境が本人にとって望ましい状態かといえばそんなことばかりではない。
例えば使い過ぎた関節が傷んで痛みが生じることがある。場合によっては腫れて関節が曲がらなくなる。これは本人とっては苦痛で不都合であるが関節の症状を自然に取り除いていくためにはとても大事な体の反応だ。からだは本人の都合なんか考慮してくれないがからだ全体から言えばどんな場合でも理に適った反応を示しているはずだ。

膝関節を傷めると水が溜まって関節を曲げにくくなることがある。これは患者さんからすれば不都合だが傷んだ関節からすれば必然の場合が多い。元々関節には滑液包と言う水枕状のものがあって関節をつくっている骨同士がゴツゴツぶつからないようクッションの役割を果たしている。膝関節に水が溜まって腫れるというのはこの滑液包の中の水が増えてパンパンになった状態だ。パンパンに腫れると曲げにくいし無理に曲げようとすると滑液包内の圧力が増すので痛みが増したりする。こうなるとほとんどの人は整形外科を受診して滑液を抜いてもらって消炎剤などの薬材を注入する処置をしてもらうことになる。旨くすればそれで治ってしまうこともある。

しかし、なぜこういう状況に陥ったか、何故からだがそのように反応したかを考えてみることを忘れてはいないだろうか。からだはその人の人生なんか知ったことではない今傷んだ膝をどうやって治すかそれだけがテーマだ。医療のなかった太古の昔から生物のこのメカニズムは存在していて今も変わっていない。つまり傷んだ膝を自然に治すには動かしてはならないから痛んだり腫れたりして動かせなくしているだけなのだ。水が溜まるのは傷んだところに骨などが触らないように引き離しているのであって整形外科的に言えばギブスの役目を果たしているのだ。自然のギブスだ。痛みは「ご用心を!」「動かさないで!」というからだからの声無きサインでもあり動きを制限する有効な手段でもある。これらは決して本人を無意味に苦しめるためにあるのではない。より良い状況を自分で作り出すためにある「自動調整機能」のひとつだ。
自分の経験でいえばからだが持っている「自動調整機能」を最大限に活かして邪魔をしなければ症状を軽くすることができるし最悪の結果(人工関節)を招かないで済むと思っている。

しかし、この声を無視して自分の都合の良いように(膝に溜まった水を抜いたり、痛み止めで痛みを感じなくしたりする)するといずれいつかは必ずしっぺ返しがやってくる。いつかは判らない。直ぐにおとずれるかもしれないし10年後かもしれないがいつかはやってくる。
動かしてはならないのに水を抜いたり痛み止めばかりを使っているとからだは「こんなに止めてくれといっていても聞いてくれないならもっと大きな声で叫ばなければ…」と更に強い痛みを発して訴えてくる「動かさないで!」と。そしてそれでも聞いてもらえなければ「ここに関節があるから傷つくのだ…」とその複数の骨でできている関節の機能自体を無くすように動き始める。つまりそれぞれの骨同士がくっついてひとつに固まって動かなくしようと骨が変形し始め骨棘をつくり始める。骨棘ができると更に炎症や痛みはひどくなる。そして最初の内に膝の声無き声に耳を傾けなかった結果は最悪の場合人工関節だ。

もしこういう結末を迎えたくなかったら早い内から声無き声に耳を傾けてそれに応えていかなければならない。それは臨床家の仕事ではなく患者さん本人がすべきことの方が多い。あくまでも主役は患者さん本人であって臨床家は黒子だ。主役が旨く演じないと黒子も役に立たない。具体的にいうと主役が旨く立ち回るためには今自分がおかれている状況を理解して受け入れなければならない。動かしてならないのであれば動かしたくても動かしてはならない。曲げてはならないのであればそうしてはならない。しかしどんな時動かしてならないか曲げてはならないかは患者さんに判るはずもないからそこを黒子である臨床家が判断して適切にアドバイスしていかなければならない。それが旨くかみ合ったときは「自動調節機能」が有効に働けるので最悪の結果をみなくて済むはずだ。

鍼灸は多くの患者さんが充分活用できていないこの「自動調整機能」を最大限引き出すことができる医療手段だと思っている。鍼灸の効果に個人差があるのは鍼灸師の技量の差にも因るが「自動調整機能」に個人差があることにも因る。活用できていない割合が多ければ鍼灸の効果も大きくなると期待できる。

風邪のひきかかり・・・葛根湯!?

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「風邪の引きかかりには葛根湯」というセリフは皆さん巷でよく耳にすると思います。これは厳密に言えば正しくありません。厳密には「風邪の引きかかりに葛根湯を服用すると劇的に治ることもあるが場合によっては全く効かない。または効かないどころかひどくなってしまうこともある」です。

ではどうして劇的に効いたり効かなかったりするのでしょうか。東洋医学者なら誰でも知っている常識ですが、診立て方が西洋医学と全く違うのにそのまま西洋医学の診立て方で処方していることが効く効かないに大きく影響しています。

  • 元々漢方には「風邪の引きかかり」という診極め方はありません。「風邪の引きかかり」という判断基準が世間で広く言われ始めたのは漢方製剤が保健薬として使われ始めてからだと思います。ツムラの「TSUMURA KAMPO MEDICINES FOR ETHICAL USE」という医師向けの漢方製剤処方マニュアルの第一番目に番号付けられているのが「葛根湯」です。当初、医師で東洋医学に精通した方は極々少なかったので医師が漢方製剤を処方する場合このマニュアル本を頼りにしているのが現実でした。一般的に西洋医学では診断によって病名をつけることでその処方が決定されるのでこのマニュアル本もそれに倣っていましたから「葛根湯」の処方基準も病名や症状を列挙したものです。その基準の中に「感冒・鼻かぜ・熱性疾患の初期云々」という文面があります。もし風邪と診断してマニュアル本を開けば真っ先に「No.1 カッコントウ」が挙げられているわけですからそれをそのまま処方する医師が沢山いました。これが後に「風邪の引きかかりは葛根湯」という一般的な認識につながったと思います。
  • 本来漢方処方の診立て方は病名を求めるものではありません。証と言う概念があって色々な症状や体表観察・脈診・舌診などによって病がどの位置にあるか、どの深さにあるかまた病因がどれに類するかを判断して処方します。葛根湯は病位で言えば一番表層、病因は寒です。病位が一番表層ですから確かに病が表層から順に入っていく場合はヒトが風邪症状を初めて感じたとき病は一番表層にあるはずなので「葛根湯証」が適することが多いと思います。もしまさにそうであった場合は劇的に効果が現れいわゆる一発で治ったという経験もありえます。
  • しかし病と言うのはそう単純でなく表層から順に入っていくとは限りません。第2層、第3層や中には第4層に直接最初から入り込んでくるときも往々にしてあります。実は現代はこのケースがかなり多いので「風邪の引き始め」は「葛根湯」というオートマティックな処方は通用しません。仮に第2層以下に病がある場合に間違って「葛根湯」を処方すると病が更に奥深く入り込む可能性があります。そうなると症状が悪化します。漢方薬が副作用が少ないと言うのは処方が正しく行われたときの事で間違うと副作用も大きく出る場合があります。漢方薬を服用する場合は是非、専門家にご相談を。

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反応と症状

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昔、「クシャミ3回ルル3錠」という風邪薬のCMコピーがありました。私が小学生の頃、TVがまだ普及して間もなかった頃の話です。このコピーは当時の私にとって相当のインパクトがあったらしく今でもクシャミをすると「クシャミ3回ルル3錠」というフレーズが頭の中に浮かんでしまいます。最近は「風邪の引きかかりに葛根湯」というフレーズが巷でよく聞きますね。

しかし、これらは厳密に言えば間違いです。クシャミに限らず咳・鼻水などは必ずしも病気の「症状」とは言えません。身体の自動調整機能の一つの「反応」である場合もあるので「症状」なのか「反応」なのかをみわける必要があります。「反応」だけの場合は原則として治療の必要はありません。

では「反応」とはどんな現象かといえば

  • 冷たい空気を吸い込んだ時その冷たい空気が直接肺に入り込んでしまうのを防ぐために、また埃などの異物を吸い込まないために入りかかった冷たい空気や埃を押し出すためにクシャミが出ます。またクシャミによって筋肉が強く収縮するので筋肉が発熱しますから寒さに応じる身体の状態を作ることが出来ます。
  • 鼻水が出ることで鼻腔が狭まるので急激に流入するのを妨げて奥に行く間に体温によって暖められ極端に冷たい空気が肺に入っていくことを防ぎます。また異物を吸着してそれ以上奥に入らないようにして押し出す働きもします。
  • 鼻を通り抜けて冷たい空気や異物が奥に入り込むと同じようにその侵入を防ぐために咳が出ます。

これら「反応」はその反応の要因がなくなればその必要なくなりますから身体が温まったり寒さに慣れてしまうとクシャミは治まりますし異物が押し出されればクシャミも鼻水も咳も治まります。だから朝起きたときにクシャミが出たとしてもひとしきり出たら治まってしまうのは「寒冷刺激からの反応」で「風邪の症状」ではありません。反応には個人差がありますから一々反応する人もあれば反応が鈍い人もあります。

つまり「クシャミ3回」では「風邪」を引いたと判断するには早すぎるということになります。もし風邪の症状であれば風邪が治ってこないと症状は治まりませんから暫く経っても治まらないときに「風邪」かもしれないなと判断しても遅くないと思います。

また元々風邪を治す薬というものはこの世に存在しません。症状を緩和するだけです。すべて人体の自動調整能力によって解決するしかありませんからまずは安静が一番です。鍼灸は調整能力を最大限引き出しますから風邪を引いたときもお役に立てます。

葛根湯の話は次回にお話します。

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