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臨床経絡

「経穴ゲートスイッチ理論」に基づいた臨床現場で役立つ経絡治療の紹介

沢山の東洋医学の理論があり、それを学校で学びますがどのように運用するかまでは教えてくれません。「経穴ゲートスイッチ理論」を理解すれば知識が臨床に活かせるようになります。

ここでは「入門」「症例集」「臨床ひろば」「異論な医論」の4つのテーマに分けて紹介しています。

「臨床経絡」入門

難経(二十一難~五十難)

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二十一難(生死)

二十一の難に曰く、経に言う、人形病んで脈病まざるを生くという。脈病んで形病まざるを死というとは何んの謂ぞや。しかるなり、人形病んで脈病まずとは病まざるものあるにあらざるなり、いわゆる息数、脈数に応ぜざるなり。此れ大法なり。
 

二十二難(是動病・所生病)

二十二の難に曰く、経に言う、脈に是動有り、所生病有り、一脈変じて二病となるものは何ぞや。しかるなり、経に言う、是動とは気なり。所生病とは血なり。邪、気にあれば、気是がために動ず。邪、血にあれば生ずる所の病を生ず。気はこれを呴(アタタ)むることを主り、血はこれを濡すことを主る。気留って行らざれば、気先づ病むことをなす、血壅(フサガ)って濡さざれば、血後に病むことをなすなり、故に是動を為すことを先にし、所生を後にす。


二十三難(経絡:脾の大絡・脈診)

二十三の難に曰く、手足の三陰三陽の脈の度数、暁すべきことをもってせんやいなや。しかるなり、手の三陽の脈は手より順に至って、長きこと五尺、五六合して三丈、手の三陰の脈、手より胸中に至って、長きこと三尺五寸、三六一丈八尺、五六三尺、合して二丈一尺、足の三陽の脈、足より順に至って、長きこと八尺、六八四丈八尺、足の三陰の脈、足より胸に至って、長きこと六尺五寸、六六三丈六尺、五六三尺、合して三丈九尺、人両足の蹻(キョウ)脈は足より目に至る、長さ七尺五寸、二七一丈四尺、二五一尺、合して一丈五尺、督脈任脈は各々四尺五寸、二四八尺、二五一尺、合して九尺。凡て脈の長さ一十六丈二尺、これいわゆる十二経脈長短の数也。経脈十二絡脈十五、何くに始り、何くに窮るや。しかるなり、経脈は血気を行らし、陰陽を通じもって身を栄するものなり。それ中焦より始って、手の太陰、陽明に注ぎ、陽明より足の陽明、太陰に注ぎ、太陰より手の少陰太陽に注ぎ、太陽より足の太陽少陰に注ぎ、少陰より手の心主少陽に注ぎ、少陽より足の少陽厥陰に注ぐ、厥陰復た還って手の太陰に注ぐ。別絡十五皆なその原に因り、環の端なきが如し。転た相灌漑して寸口人迎に朝す、もって百病を処し、しかして死生を決するなり。経に云う、明に終始を知って陰陽定るとは何の謂ぞや。しかるなり終始は脈の紀なり。寸口人迎は陰陽の気、朝使に通じて環の端無きが如し、故に始と曰うなり。終は三陰三陽の脈絶なり、絶する時は死す、死するに各々形有り。故に終という。
 

二十四難(病理:気絶)

二十四の難に曰く、手足三陰三陽の気、已に絶せば何をもってか候となしてその吉凶を知るべきや否や。しかるなり、足の少陰の気絶すれば即ち骨枯る。少陰は冬の脈なり、伏行して骨髄を温む故に、骨髄温かならざれば即ち肉骨に著かず、骨肉相親まざれば、即ち肉濡かにして却る。肉濡にして却る故に、歯長くして枯る、髪に潤沢無し、潤沢無きものは骨先づ死す、戊の日に篤しく、已の日に死す。足の太陰の気絶するときは脈その口唇を営せず、口唇は肌肉の本なり。脈栄せざれば、肌肉滑沢ならず、肌肉滑沢ならざるときは肉満つ、肉満つるときは唇反る、唇反るときは肉先づ死す、甲の日に篤く、乙の日に死す。足の厥陰の気絶すれば、即ち筋縮り卵と舌とに引いて巻く。厥陰は肝の脈なり、肝は筋の合なり、筋は陰器に聚つて舌本を絡う、故に脈営せざるときは筋縮り急す、筋縮急なれば、即ち卵と舌とに引く、故に舌巻き卵縮る。これ筋先づ死す。庚の日篤く、辛の日に死す。手の太陰の気絶すれば、即ち皮毛焦る、太陰は肺なり、気を行らし、皮毛を温るものなり。気営せざるときは皮毛焦る、皮毛焦るときは津波去る、津液去るときは皮節傷る、皮節傷るときは皮枯れ、毛折る。毛折る者は毛先づ死す。丙の日篤く、丁の日死す。手の少陰の気絶するときは脈通ぜず、脈通ぜざるときは血流れず、血流れざるときは色沢去る。故に面色黒くして黧(レイ)の如し、此れ血先づ死す。壬の日に篤く、癸(ミズノト)の日に死す。三陰の気、倶に絶するものは、則ち目眩転し、目瞑す、目瞑するものは志を失する事を為す。志を失するものは、則ち志先づ死す、死するときは目瞑すなり。六陽の気、倶に絶するときは陰と陽と相離る、陰陽相離るときは腠理泄して絶え汗乃ち出て、大さ貫珠の如く、転た出で、流れず、即ち気先づ死す。旦(アシタ)に占みて夕に死し、夕に占みて旦に死す。


二十五難(心包経・三焦経)

二十五の難に曰く、十二経有り、五蔵六府は十一のみ、その一経は何等の経ぞや。しかるなり、一経は手の少陰と心主と別脈なり。心主と三焦と表裏となす、倶に名有って形無し、故に経に十二有りと言うなり。


二十六難(陰蹻脈・陽蹻脈)

二十六の難に曰く、経に十二有り、絡に十五有り、余の三組絡はこれ何等の絡ぞや。しかるなり、陽絡有り、陰絡有り、脾の大絡有り。陽絡は陽蹻の絡なり、陰絡は陰蹻の絡なり。故に絡十五あり。


二十七難(奇経八脈)

二十七の難に曰く、脈に奇経八脈と云うもの有って十二経に拘らざるは何ぞや。しかるなり、陽維有り、陰維有り、陽蹻有り、陰蹻有り、衝育り、督有り、任有り、帯の脈有り、凡そ此の八脈は皆経に拘らず、故に奇経八脈と曰う。経に十二有り、絡に十五有り、凡て二十七気相随って上下す、何んぞ独り経に拘らざるや。しかるなり、聖人溝渠を図り設け、水道を通利してもって上然に備う、雨降下すれば溝渠も溢満す、此の時に当ってホウ霈(ハイ)妄りに作る、聖人も復た図ること能わず。此の絡脈満溢すれば諸経も復た拘ること能わざるなり。


二十八難(奇経八脈:流注)

二十八の難に曰くその奇経八脈のもの既に十二経に拘らずんば、皆何くに起り、何くに継ぐぞや。しかるなり、督脈は下極の兪に起り脊裏に並んで上り、風府に至り、入って脳に属す。任脈は中極の下に起り、もって毛際に上り、腹裏を循り、関元に上り、喉咽に至る。衝脈は気衝に起り、足の陽明の経に並んで臍を夾みて上行して胸中に至って散ず。帯脈は季脇に起り、身を廻ること一周す。陽蹻(キョウ)の脈は跟中に起り外踝を循り、上行して風池に入る。陰蹻脈は亦跟中に起り、内踝を循り上行して咽喉に至り衝脈に交り貫く。陽維、陰維は身を維絡す、溢畜諸経に環流潅漑すること能わざる者なり。故に陽維は諸陽の会に起る。陰維は諸陰の交に起る。聖人溝渠を図り設く、溝渠満溢して深湖に流る、故に聖人も拘り通ずること能わざるに比す。而して人の脈隆盛なれば、八脈に入って環流せず、故に十二経も亦、之を拘ること能わず。それ邪気を受けて畜るときは腫熱す、砭(ヘン)にて之を射す。


二十九難(奇経八脈:病症)

二十九の難に曰く、奇経の病たること何如ん。しかるなり、陽維は陽を維し、陰維は陰を維す。陰陽自ら相維すること能わざるときは、悵然として志を失し、溶々として自ら収持すること能わず。陽維の病たること寒熱を苦しむ、陰維の病たること心痛を苦しむ、陰蹻の病たること陽緩くして陰急、陽蹻の病たること陰緩くして陽急なり、衝の病たること逆気して裏急す、督の病たる背強りて厥す、任の病たることその内、結を苦しむ、男子は七疝(セン)となし、女子は瘕(:キズ)聚をなす、帯の病たること腹満し腰溶々として水中に坐するが若し、此れ奇経八脈の病を為すなり。


三十難(栄衛の循環)

三十の難に曰く、栄気の行、常に衛気と相随うや、いなや。しかるなり、経に言く、人は気を穀に受く、穀胃に入って、乃ち五蔵六府に伝与す、五蔵六府皆気を受く。その清きものは栄となり、濁るものは衛となる、栄は脈中を行き、衛は脈外を行く。栄周して息まず、五十にして復た大いに会す、陰陽相貫くこと環の端無きが如し、故に知らんぬ栄衛相随うことを。


三十一難(三焦・治療点)

三十一の難に曰く、三焦は何くに稟(ウケ)て何くに生じ、何くに始まり、何くに終る、その治常に何の許に在り暁すべきこともってせんやいなや。しかるなり、三焦は水穀の道路、気の終始する所なり。上焦は心下下鬲(レキ)に在り、胃の上口に在り、内れて出さざることを主る、その冶、膻中に在り、玉堂の下一寸六分、直ちに両乳の間、陥なるもの是れなり。中焦は胃の中脘に在り、上ならず、下ならず、水穀を腐熟することを主る、その治、臍の傍らに在り。下焦は膀胱の上口に当る、清濁を分別することを主り、出して内れざることを主り、伝道をもってするなり、その治、臍下一寸に在り。故に吊けて三焦という。その府気街に在り。

 

三十二難(心肺の位置)

三十二の難に曰く、五蔵倶に等しくして、心肺独り鬲上に在るものは何んぞや。しかるなり、心は血、肺は気、血は栄となり、気は衛となる、相随って上下す、之を栄衛と謂う。経絡を通行し、外に営周す、故に心肺をして鬲上に在らしむ。


三十三難(解剖:肺肝の位置)

三十三の難に曰く、肝は青くして木に象る、肺は白くして金に象る。肝は水を得て沈み、木は水を得て浮ぶ、肺は水を得て浮び、金は水を得て沈む、その意何んぞや。しかるなり、肝は純木たるにあらざるなり、乙角なり、庚の柔、大言すれば陰と陽、小言すれば夫と婦、その微陽を釈て、その微陰の気を吸う、その意金を楽しむ、又陰道に行くこと多し、故に肝をして水を得て沈ましむ。肺は純金たるにあらざるなり辛商なり、丙の柔、大言すれば陰と陽、小言すれば夫と婦、その微陰を釈て婚して火に就く、その意火を楽しむ、又陽道に行くこと多し、故に肺をして水を得て浮ばしむ。肺熟して復た沈み、肝熟して復た浮ぶものは何んぞや。故に知らんぬ、辛は当に庚に帰すべし、乙は当に甲に帰すべし。


三十四難(五蔵の色体)

三十四の難に曰く、五蔵各々声色臭味有り、皆暁し知るにもってせんやいなや。しかるなり、十変の言、肝の色は青く、その臭は臊(ソウ)、その味は酸、その色は呼、その液は泣。心の色は赤、その臭は焦、その味は苦、その声は言、その液は汗。脾の色は黄、その臭は香、その味は甘し、その声は歌、その液は涎。肺の色は白くその臭は腥(ナマグサイ)、その味は辛、その声は哭く、その液は涕(ナミダ)。腎の色は黒く、その臭は腐、その味は鹹(カン;シオカライ)、その声は呻、その液は唾。これ五蔵の声色臭味なり。五蔵に七神有り、各々何を蔵す所ぞや。しかるなり、蔵は人の神気の舎蔵する所なり。故に肝は魂を蔵し、肺は魄を蔵し、心は神を蔵し、脾は意と智とを蔵し、腎は精と志とを蔵す。
 

三十五難(解剖:五蔵の位置)

三十五の難に曰く、五蔵各々所有り、府皆相近くして、心肺独り大腸小腸を去ること遠きものは何んぞや。しかるなり、経に言う、心は栄、肺は衛、陽気を通行す、故に居上に在り、大腸小腸は陰気を伝えて下る、故に居下に在り。所以に相去ること遠きなり。又諸府は皆陽なり、清浄の処、今大腸小腸、胃と膀胱は皆上浄を受く、その意何んぞや。しかるなり、諸府とは謂る是れ非なり。経に言う、小腸は受盛の府なり、大腸は伝写行道の府なり、膽(タン)は清浄の府なり、胃は水穀の府なり、膀胱は津液の府なり、一府猶両名なし、故に知んぬ非なる事を。小腸は心の府、大腸は肺の府、膽は肝の府、胃は脾の府、膀胱は腎の府。小腸は謂る赤腸、大腸は謂る白腸、膽(タン)は謂る青腸、胃は謂る黄腸、膀胱は謂る黒腸、下焦の治る所なり。


三十六難(解剖・生理:腎・命門)

三十六の難に曰く、蔵各々一有るのみ、腎独り両つあるものは何んぞや。しかるなり、腎の両つあるは皆腎にあらずその左なるものは腎となし右なるものは命門となす。命門は諸々の神精の舎る所、原気の繋る所なり、男子はもって精を蔵し、女は以つて胞を繋ぐ、故に知んぬ腎に一つ有ることを。


三十七難(生理:五蔵・陰陽)

三十七の難に曰く、五蔵の気何くに於いて発起し何れの許に通ずる、暁すべきこともってせんや否や。しかるなり、五蔵は当に上、九竅に関す。故に肺気は鼻に通ず、鼻和すれば香臭を知る。肝気は目に通ず、目和するときは黒白を知る、脾気は口に通ず、口和するときは穀味を知る、心気は舌に通ず、舌和するときは五味を知る、腎気は耳に通ず、耳和するときは五音を知る。五蔵和せざるときは九竅が通ぜず、六府和せざるときは留結して癰(ヨウ)となる。邪六府に在るときは陽脈和せず、陽脈和せざるときは気之に留む、気之に留るときは陽脈盛なり。邪五蔵に在るときは陰脈和せず、陰脈和せざるときは血之に留る、血之に留るときは陰脈盛なり。陰気太だ盛なるときは陽気相営することを得ず、故に格と曰う。陽気大だ盛なるときは陰気相営することを得ず、故に関という。陰陽倶に盛にして相営することを得ず、故に関格という、関格はその命を尽すことを得ずして死す。経に言う、気独り五蔵に行って六府に営せざるものは何んぞや。しかるなり、気の行る所は水の流れるが如く息することを得ず。故に陰脈は五蔵を営し、陽脈は六府を営す、環の端無きが如く、その記を知ることなし、終って復た始まる。それ覆溢せざれば、人の気、内蔵府を温め、外腠理を濡す。


三十八難(解剖:三焦)

三十八の難に曰く、蔵唯五有り、府独り六有るは何んぞや。しかるなり、府の六つある所以のものは謂る三焦なり。原気の別あり、諸気を主持して、名有って形無く、その経手の少陽に属す、此れ外府なり、故に府に六有りと言う。


三十九難(解剖・生理:腎・命門)

三十九の難に曰く、経にいう、府に五有り蔵に六有るとは何んぞや。しかるなり、六府は正に五府なり、五蔵亦た六蔵有るものは謂る腎両蔵有ればなり、その左を腎となし、右を命門となす、命門は精神の舎る所なり、男子はもって精を蔵し、女子はもって胞を繋ぐ、その気腎と通ず、故に言う、蔵に六有りと。府五有るものは何んぞや。しかるなり、五蔵に各々一府、三焦も亦是れ一府、しかも五蔵に属せず、故に言う、府に五有りと。


四十難(生理)

四十の難に曰く、経に言う、肝は色を主り、心は臭を主り、脾は味を主り、肺は声を主り、腎は液を主る。鼻は肺の候にして反って香臭を知る、耳は腎の候にして反って声を聞く、その意何んぞや。しかるなり、肺は西方の金なり、金は巳に生ず、巳は南方の火、火は心、心は臭を主る、故に鼻をして香臭を知らしむ。腎は北方の水なり、水は申に生ず、申は西方の金、金は肺、肺は声を主る、故に耳をして声を聞かしむ。


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難経(一難~二十難)

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はじめに

勝手な想像ですが『難経』は当時の医学者の安直本だったのではなかろうかと思っています。「諸説紛々であるがここに挙げた81項目を理解実践すれば 臨床家にとっては充分だ」というふれこみで『難経』はデビューしたのではなかろう かと思っています。本文にはサブタイトルは付けられていませんが初学者の学習を容易にする為、勝手にサブタイトル付きの読み下し文を作ってみました。


一難(脈診:基礎、生理)

一の難に曰く、十二経皆動脈有り、独り寸口を取って五臓六腑死生吉凶之法を決すとは何んの謂ぞや。しかるなり、寸口は脈の大会する、手の太陰の脈動なり。人一呼に脈行くこと三寸、一吸に行くこと三寸、呼吸定息に脈行くこと六寸。人一日一夜に凡て一万三千五百息。 脈行くこと五十度にして身を周る。漏水下ること百刻、栄衛陽に行くこと二十五度、陰に行くこともまた二十五度、一周と為す也。ゆえに五十度にして復た手の太陰に会す、寸口は五蔵六腑の終始する所、ゆえに法を寸口に取る也。


二難(脈診)

ニの難に曰く、脈に尺寸ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、尺寸は脈の大要会なり。関より尺に至って、これ尺の内、陰の治まる所なり。関より魚際に至って、これ寸口の内、陽の治まる所なり。ゆえに寸を分ちて尺となし、尺を分ちて寸となす。ゆえに陰は尺内一寸を得、陽は寸内九分を得。尺寸終始一寸九分。ゆえに尺寸というなり。


三難(脈診:常脈・診断)

三の難に曰く、脈に大過あり、不及あり、陰陽相乗あり覆あり、溢あり、関あり、格ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、関の前は陽の動なり。脈まさに九分に見れて浮なるべし。過るものは法に大過といい、減ずるものは法に不及という。遂んで魚に上るを溢となし、外関内格となす。これ陰乗の脈なり。関以後は陰の動なり、脈まさに一寸に見れて沈なるべし。過るものは法に大過といい、減ずるものは法に不及という。遂んで尺に入るを覆となし、内関外格となす。これ陽乗の脈なり。ゆえに覆溢という。これその真蔵の脈は人病まざれども死す。


四難(脈診:脈状、呼吸)

四の難に曰く、脈に陰陽の法ありとはなんの謂ぞや。しかるなり、呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る。呼吸の間に脾は穀味を受く。その脈、中にあり。浮は陽なり、沈は陰なりゆえに陰陽という。心肺はともに浮、何をもってかこれを別たん。しかるなり、浮にして大散なるものは心なり。浮にして短濇(ショク)なるものは肺なり。腎肝はともに沈、何をもってかこれを別たん。しかるなり、牢にして長なるものは肝なり、これを按じて濡、指を挙ぐれば来ること実なるものは腎なり、脾は中州、ゆえにその脈、中にあり、これ陰陽の法なり。脈に一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽、一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰あり。この如きの言、寸口に六脈ともに動ずることありや。しかるなり、この言は六脈ともに動ずること有るにあらず。いわゆる浮沈、長短、滑濇なり。浮は陽なり、滑は陽なり、長は陽なり、沈は陰なり、短は陰なり、濇は陰なり。いわゆる一陰一陽は脈来ること沈にして滑なるをいう。一陰二陽は脈来ること沈滑にして長なるをいう。一陰三陽は脈来ること浮滑にして長、時に一沈なるをいう。一陽一陰は脈来ること浮にして濇なるをいう。一陽二陰は脈来ること長にして沈濇なるをいう。一陽三陰は脈来ること沈濇にして短、時に一浮なるをいう。各々その経の在る所をもって病の逆順を名づく。


五難(脈診:菽法脈診)

五の難に曰く、脈に軽重ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、初めて脈を持するに三菽の重さの如く皮毛と相得るものは肺の部なり。六菽の重さの如く血脈と相得るものは心の部なり。九菽の重さの如く肌肉と相得るものは脾の部なり。十二菽の重さの如く筋と平らかなるものは肝の部なり。これを按じて骨に至り指を挙ぐれば来ること良きものは腎の部なり。故に軽重というなり。


六難(脈診)

六の難に曰く、脈に陰盛陽虚、陽盛陰虚ありとは何んの謂ぞや。しかるなり、これを浮べて搊小、これを沈めて実大、ゆえに陰盛陽虚という。これを沈めて搊小、これを浮べて実大、ゆえに陽盛陰虚という。これ陰陽虚実の意なり。


七難(脈状:三陰三陽の四時の脈)

七の難に曰く、経に言う、少陽の至る乍大、乍小、乍短、乍長、陽明の至る浮大にして短、太陽の至る洪大にして長、太陰の至る緊大にして長、少陰の至る緊縮にして微、厥陰の至る沈短にして敦、この六つのものはこれ平脈なりや、はたまた病脈なりや。しかるなり、皆王脈なり。その気いずれの月を以って各々王すること幾日ぞや。しかるなり、冬至の後、甲子を得て少陽王す、復た甲子を得て陽明王す、復た甲子を得て太陽王す、復た甲子を得て太陰王す、復た甲子を得て少陰王す、復た甲子を得て厥陰王す、王すること各々六十日、六六三百六十日以って一歳を成す、これ三陽三陰の旺する時日の大要なり。


八難(病理:腎間の動悸)

八の難に曰く、寸口の脈平にして死するは何んの謂ぞや。しかるなり、諸々十二経脈は皆生気の原に係る。いわゆる生気の原とは、十二経の根本をいうなり。腎間の動気をいうなり。これ五蔵六府の本、十二経脈の根、呼吸の門、三焦の原、一には守邪の神と名づく。ゆえに気は人の根本なり.根絶するときは茎葉枯る。寸口の脈平にして死するものは生気独り内に絶すればなり。


九難(脈状:診断)

九の難に曰く、何を以ってか蔵府の病を別ち知るや。しかるなり、数は府なり、遅は蔵なり、数は則ち熱となし、遅は則ち寒となす、諸陽を熱となし、諸陰を寒となす。ゆえに以って蔵府の病を別ち知るなり。


十難(脈状:一脈十変)

十の難に曰く、一脈十変となるとは何んの謂ぞや。しかるなり、五邪剛柔相い逢うの意なり。たとえば、心脈急甚なるものは肝の邪心を干すなり、心肺微急なるものは胆の邪小腸を干すなり。心の脈大甚なるものは心の邪自ら心を干すなり、心の脈微大なるものは小腸の邪自ら小腸を干すなり。心の脈緩甚なるものは脾邪心を干すなり、心の脈微緩なるものは胃の邪小腸を干すなり。心の脈濇(ショク)甚なるは肺の邪心を干すなり、心の脈微濇(ショク)なるものは大腸の邪小腸を干すなり。心の脈沈甚なるものは腎の邪心を干すなり、心の脈微沈なるものは膀胱の邪小腸を干すなり。五蔵各々剛柔の邪あり、ゆえに一脈をして輙(スナワ)ち変じて十となさしむ。

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子 午

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古くから劇症の急性疾患に著功を示すと言われる子午治療の根拠となるのは素問天元紀大論篇第六十六、五運行火論篇第六十七、六微旨大論篇第六十八、気交変大論第六十九、五常政大論第七十、六元正紀大論第七十一、至真要大論第七十四の七篇ですがこの七篇をまとめて「運気七篇」と言います。この「運気七篇」中の子午関係の理論を臨床に応用したのが子午治療です。 簡単に言うと十二経絡を十二支に配当し時刻と経絡の関係を明かにし更に対角の干支関係を(例えば子と午の関係)臨床に応用したものです。特に劇症の急性疾患の時に応用すると驚くほどの効果をみることがあります。しかし劇症と言うほど症状が激しくなくても症状が特定の経に限局しているもので比較的に症状の発現の時期が新しいものについてはこの子午治療を試してみる価値はあります。


 具体的にはある経に病症が限局して発現した場合その経と子午関係にある経に治療穴を求めて施術します。治療穴は病症と反対側(健康側)で主に絡穴に求めますが状況によっては絡穴以外の経穴に治療穴を選ぶこともあります。
出典に厳密に倣うならばその時刻などの条件も揃わなければ適応する病症ではないと言うことになりますが実際の臨床では時間に関してはあまり厳密にとらわれることはないと思います。
ほとんどの場合、治療の第一鍼に選択される理論ですが治療中に新たに出現した一時的病症を取り除くことにも有効に働きます。


子午治療を経穴ゲートスイッチ理論に基づいて治療の最初の第一第二鍼として運用する場合はその前に立てた治療方針が妥当であるかを確かめる方法としても有効です。具体的には、もし選択した経穴によって何も病症的変化が無い場合は患者さんの訴えていた病症が最初に考えていた経に由来しない確率が高いということを示しています。
つまり第一第二鍼の結果を診ることは病症がどの経由来かを確かめる検査としても位置づけられるので検査と治療の両方を兼ね備えていることになるとても都合の良い方法です。


子午関係図


八脈交会八穴歌

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「八脈交会八穴歌」
(医宗金鑑)

◆公孫は衝脈にして胃心胸をつかさどる

◆内関は陰維にしてくだすところは総じて同じ

◆臨丘は胆経にして帯脈に連なる

◆陽維は目鋭にて外関と逢う

◆後谿は督脈にして内眥と頸に通じ

◆申脈は陽蹻の絡にしてまた(内眥と頸に)通ず

◆列缺は任脈にして肺系に行き

◆陰蹻は照海にして膈と喉ロウにいく

奇 経(督脈)

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5、「督脉」

a)
流注・配当穴


「陽脉の海」。胞中より起始。骨盤の中央に下行し尿道口の下端にある廷口(膣の開口部)に連絡。会陰から起こり脊柱に沿って上り後頭の正中より風府穴に至り、脳に入る。さらに頭蓋の正中を通り百会穴に上り額をめぐり鼻柱に至り上歯齦に終る。

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