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臨床経絡

「経穴ゲートスイッチ理論」に基づいた臨床現場で役立つ経絡治療の紹介

沢山の東洋医学の理論があり、それを学校で学びますがどのように運用するかまでは教えてくれません。「経穴ゲートスイッチ理論」を理解すれば知識が臨床に活かせるようになります。

ここでは「入門」「症例集」「臨床ひろば」「異論な医論」の4つのテーマに分けて紹介しています。

「臨床経絡」入門

比較脈診法

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はじめに

経絡治療に脈診は欠かせない診察技術ですがこの技術を完全に習得するには沢山の時間と努力が必要です。かくいう私も自分の技術をこれで足りると思ったことは未だ一度もありません。しかしそうは言いながらも完全ではない診脈力で何十年と臨床をやっているわけです。しかし毎日毎日脈診を何回となく繰り返しているわけですからさすがに以前とは比べものにならないくらい技術は上がったと自分では思っています。それにしても昔の自分の診脈力を考えればよくもあの程度で臨床をこなしていたなあと空恐ろしくなります。証を決定するのに自信が持てず四苦八苦することも度々でした。それでも証さえ立てればそれなりの治療をしてきたわけです。要するに鍼灸はそれなりの技術でもそれなりの事だけはできるわけです。


 さて本来脈診は比較脈診、脈状診を総合的に分析考察して立証の手立てとしますがそのプロセスは熟達した技術をもってしても時として難しいものです。ましてこれから脈診を学習しようとする方達にとっては雲を掴むような話しで途方にくれてしまう事も多いと思います。そこで初心者がより正確に脈診ができる方法として簡易的な比較脈診法を考案し、2000年より臨床に応用しています。


簡易的な脈診法では副証の決定に正確さをやや欠きますが本証の決定だけをみれば本来の比較脈診法とさほどの誤差もないと思います。誤差が出るとしたら副証の絡みが複雑であったり元々脈が診にくく熟達者でも慎重に診脈しなければならないものが殆どです。


 実際の臨床においては脈診だけで立証することは危険なので脈診の精度が多少未熟であっても病症の弁別をしっかりやれば誤差は修正されます。何故なら脈診に比べ病症の弁別は経験の浅い者でも早い時期から正確な弁別ができる可能性があるからです。それは指先の技術ではなく知識として病症のパターンを多く知っていることと患者から得られる情報をその知識を生かして如何に正確に弁別できるかに依るからです。従って病症の弁別を加えれば脈診だけで立証した時と比べると更にその精度はあがりますから初心者であってもそれほどおかしな立証はしないはずです。仮にもし最初の判断が誤っていたとしたら次回の治療でその経験を活かせば必ず徐々に精度は増していきますし、脈状診を会得していくうちに術中に証や選穴や手技の可否が判断できるようになりますから次回の治療まで結果を持たなくてもその場その場で評価しながらより良い治療を行うことができるようになります。


 またこの簡易比較脈診法では陰陽関係、五行関係(相生・相剋)が理解していなくてもできますが学習の過程においてはできるだけ早い時期にその関係を理解し身に付ける事は絶対必須だと思います。


補足)


副証について;経絡治療に於いては副証は相剋理論によって本証と相剋関係にある経には何らかの不調和があるはずであるという考えが根本にありますが証決定に於いて最も重要なのは本証が何であるかであって副証に於いては最初の証決定の段階である程度の目安を付けておくくらいでも良いことが多いのです。
治療の各々の段階で検脈をしていけば副証の治療まで必要ないものや副証自体を考慮しなくて良いものもあります。このことは相剋理論によっても充分説明がつきます。


簡易比較脈診の根拠


その為の裏づけとして陰陽論でいう「陰が虚せばその対立にある陽は逆に実するか見かけ上実したようにみえる」という考え方に基づけば、一般に虚が大きければ実も大きく結果として陰陽の脈打つ幅も大きいであろうということ。そして初心者が感じる強い脈とは多くはこの脈打つ幅の大きいものを強いと感じているという前提で脈診のプロセスを再考してみました。
 再考にあたっての拠りどころとなったのは故福島弘道先生の「小児の脈診法」(「経絡治療要綱」福島弘道著)です。
つまり六部定位が充分に診て取れない小児の脈診で左右の脈の虚実を診て患者の右が全体として虚していれば肺虚か脾虚、左が虚していれば肝虚か腎虚と診るという方法を拠りどころとします。


 前述のように本来虚しているところを診つけるのが脈診なのですが初心者にはこれがなかなか難しい。強く脈打つところは判るがどこが虚しているかということを診断するのは案外難しいものです。
 私が後輩に脈診の指導をするようになって気付いたのですが初心者がここは強く打っていると感じるところは実際には陰分が虚して陽分との陰陽の差が大きくなっているところ、陰陽のバランスが大きく崩れているところを強く打っていると診誤ることが非常に多いのです。


 初心者からすれば強いと思っているところが実は弱いのだといわれても最初はなかなか理解しがたいことでこれが脈診を会得する上での最初の壁となります。


 指導する立場からすれば相手は初心者だから当然こちらの方が正しいのであって相手の見解を正さなければ指導したことにならないと思ってしまいます。しかし指導される側に立ってこれを見直してみると指導する側が虚していると言っているのは陰分の脈状のことで初心者が強いと感じているのは陰陽のバランスの崩れの幅のことなのです。お互いが診ているところが違うのです。勿論指導者はそれは百も承知ですからなんとか陰経の虚を診るように四苦八苦して指導します。


 しかし私は指導していくうちに指導する側が発想を換えて初心者の感じるままで正しい診断にむすびつけるように導くことはできないかと考えてみました。
 乱暴に言えば「初心者にとって強く打っていると感じるところが実は虚しているのだ」という前提で脈診を組み立てる事ができないかということです。勿論初心者から診て強く打っていると感じるだけで実際には虚しているわけですからその習熟度に応じて虚を虚として診れるように指導する事は指導する者は怠ってはならないと思います。ただ初心者が早い時期からより正確に証を立て得るとしたら臨床現場において診断に迷いや躊躇が少なくなるのではないかと考えます。


簡易比較脈診法の実際


1)脈診する部位は六部定位脈診と同じ前腕の橈骨動脈です。

2)左右の脈を寸関尺※1)に捉われず直感的に全体的にはどちらが強く※2)打っているかを比べます。

2-A)ここで患者の右の脈が強い(実際には陰が虚して陽が実しているか平である。以下も同じ)と感じた時は肺虚か脾虚の何れかが本証となる場合が多いのです。
次に肺虚か脾虚かの判断は左右の寸口の脈を比較することによって行います。
もし右の寸口の脈が強ければ本証は肺虚、左の寸口の脈が強いか左右差が無い場合は本証は殆どが脾虚です。
左右の差が無い場合は副証が腎虚で母経の肺経まで虚した4経虚とも考えられます。

2-B)また患者の左の脈が強いと感じた時は腎虚か肝虚の何れかが本証となる場合が多いのです。
次に腎虚か肝虚かの判断はこれも左右の寸口の脈を比較することによって行います。
もし右の寸口の脈が強ければ本証は腎虚、左の寸口の脈が強いか左右差が無い場合は本証は殆どが肝虚です。


 簡易比較脈診法では本来診るべき陰分の虚実を診ずに陰陽のバランスの崩れの大小を診ます。従ってこの診方では本証まではかなりの精度で証決定を導けますが副証までを正確に診断するには至りません。


しかし前述のように証を立てるにあっては脈診が全てではありません。病症の弁別だけで証を立てることだって実際にはできます。しかし病症が2経以上にわたって発現している場合(よく相生・相克関係や子午・奇経の関係などにおいて診られます)は病症の弁別だけでは決定し難いことがあります。こういう時、簡易脈診法を身につけていれば初心者でもどちらが本証かを診分けることが容易にできるはずです。従ってこの脈診法は初心者が虚実を診極める力をつけるまでの時期に少しでも戸惑いや不安を軽減するには充分に役に立つことと思います。


 いずれ虚実を診極めるといった脈状診の技術が向上していくにつれて本来の六部定位脈診法(脈差診)も正確に詳細に診極められるようになるはずです。つまりこの簡易的な方法に細かい脈状診を加えて診ることでより的確にかつ敏速に診断がつくようになりますから実は改めて六部定位脈診を訓練しなければならないということはないはずです


※1)示指を当てる部を寸口の脈、中指を当てる部を関上の脈、環指の当たる部を尺中の脈と言いそれぞれ十二経絡が配当されます。(参考図参照のこと)
※2)ここで言う強い脈とは陰陽のバランスが大きくずれているということ。


簡易脈診法図解

脈 診

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経絡治療家において脉診は欠かすことのできない診察手段であって毎回の診療においても繰り返し脉診をしながら診断、治療を行うのが必須です。
脉診には大きく分けて脉差診と脉状診があり経絡治療ではからだの状態の凡そ全てをこれで東洋医学的に推し量ることができます。

◆ 脉差診(六部定位脉診)では十二経絡の大過不及を橈骨動脈の拍動の強さを観察することによって主治経絡などを決定します。「難経六十九難」に基づいた経絡治療の証決定ではこれを主に使います。これは私が考案した簡易脈診法を行えば早い時期(1日指導を受ければ)から精度高く診断できるはずです。


◆ 脉状診では鍼灸においては経絡の変動の確認や予後の判定の他、刺鍼法やドーゼを 決定すること、更に毎回の治療直後に治療の良否をはかるのに重要です。
もし治療直後の脉状が治療家の思うところでなければ決して治療を終了してはなりません。 また更に脉状診においての予後の判定については西洋医学的に言えばこれは橈骨動脈の観察をしていることに他ならないから延いては脉診は循環器疾患の予後予見に大いに役立つはずです。

どの時点で治療を終了させるかまた施している治療の評価を術者がその場で如何にして判断するかは脈状診に拠ることが一番妥当だと思います。しかし初心者にとって脈状診は非常に解りづらい診察法です。しかし解らないと簡単にあきらめず繰り返し繰り返し一施術の中でも何回も検脈することが大切です。また健康な人の脈を基準にして病症のある人の脈状との違いを覚えるのはとても有意義です。
脈状には一般に二十四脈と七死脈があります。 


以下に代表的な脉状を列挙します。しかし実際には脉状診ほど主観的な診察法はなく文献を読み漁っても始まりません。実技研修を通してより客観的な領域に近づける必要があるので、そういう質の高い研修の場を捜し求められることをお勧めします。 



◇七表の脈;陽の脈
浮;水にただよう木のごとし、按せばかくれて指にあたらず
芤;うつろになりて中はなし、小口を切りて葱を按せ(大量出血の疑い)
滑;なめらかにして丸く打つ、球をつなぐにひとしかるべし
実;按すも挙ぐるも力あり、遅速もなくて強く大きし
弦;張りたる弓の弦を按す、きびしく急に浮きしずみなし
緊;よりのかかれる弦と見よ、ふぞろいにしてはやくかたきぞ
洪;ふとく来たりて長く去り、ひろく踊りてちからあるなり


◇八裏の脈;陰の脈
微;かすかに打ちてやわらかに小さく細くかるくおぼゆる
沈;按せばしずみて強く打ち、うかめてなきは浮の脈の裏
緩;浮にやわらかに力なし、往くも来るもゆるやかとしれ(胃の気ある平脈)
濇;細く動きて渋るなり、指を挙ぐれば無きように見ゆ
遅;極めておそく力あり、指を沈めてゆるく尋ねよ
伏;沈みかくれて骨につく、筋の下にてうかゞうて見よ
濡;和らかにして力なし、手を軽くしてさぐり求めよ
弱;たをやかにして按せばたえ、軽くやわらか綿とおぼえよ


◇九動の脈;陰陽兼ね合わせた脈
長;竿のごとくに長うして、三部の間に余りこそすれ
短;按すも挙ぐるも数ありて、短く去るは長のうらなり
虚;力なくしてやわらかに、広く大に遅く有りなし
促;せわしき中に一止り、またまた来り又はつまづく(上整脈の一種)
結;おそく緩くぞ往き来る、むすぼふれては時に止まる(上整脈の一種)
代;何十動と極まりて、ぎょうぎ乱さず打ち切れるなり(上整脈の一種)
牢;鼓の皮を按すごとく、沈みかくれて強く大きし(陰中の陽脈)
動;豆を転ばすごとくなり、踊らず動き関のみにあり
細;来るも往くも遅くして、いかにも細きいとすじとしれ


◇四季の脈;四季それぞれに現れる脈
弦;春の脈、来ること軟弱にして長なるをいう
鈎:夏の脈、来ること疾く、去ること遅きをいう
毛:秋の脈、来ること軽虚にして浮なるをいう
石:冬の脈、来ること沈濡にして滑なるをいう


◇その他の脈;
数;一息六至(平脈は一息五至)、陽であり熱とする
大;病進むとす脈の賊なり、火の象(かたち)、陽に属す
散;陰、至数斉(ひと)しからず
牢;陰中の陽脈
革;弦にして芤なり、陰とす、鼓皮を按すがごとし


脉状

性      状

陰陽

表裏

症 状 及 び 補 足

水にただよう木のごとし按ぜばかくれて指にあたらず

(陽)

浮にして力あるは風なきは虚。寸口浮は眩暈頭痛す。
関上浮は胃虚して腹はり筋痛み、身痛む。尺中浮は腰膝痛む。

うつろになりて中はなし小口を切りて葱を按ぜ

 

吐血、下血または血滞りてながれず、経絡にみたざるなり

なめらかにして丸く打つ球をつなぐにひとしかるべし

(陽)

血多く気少なきことを主る。手足くたびれ、小便赤く渋り痰気内熱を主る

按すも挙ぐるも力あり
遅速もなくて強く大きし

 

陰気隠れて内にあり、鬱熱脾胃を蒸して上食し、あるいは喘咳あるいは嘔吐し、手足つかれものうきこと主るなり

張りたる弦を按ず
きびしく急に浮きしずみなし

(陰)

力衰え、盗汗、手足痺れ疼み
皮毛枯れかじけたるを主る

肝部の本脉
他では血虚

よりのかかれる弦と見よ
ふぞろいにしてはやくかたきぞ

 

身痛み、腫物、癰疽に見わる
隠れたる風気陽邪上り侵して物にくるい驚き易きを主る

ふとく来りて長く去り
ひろく踊りてちからあるなり

 

脹満、頭痛、偏身疼痛、大便通ぜず
口中乾くことを主る

熱、風、気

かすかに打ちてやわらかに
小く細くかるくおぼゆる

(陽)

気血虚寒して臍下の冷積いたみをなし、瀉をなす
陽気衰え敗血休まず小腹虚し骨髄枯れ崩漏白帯を主る

按せばしずみて強く打ち
うかめてなきは浮の脉の裏

(陰)

邪裏にあり、気鬱疼痛を主り、臓腑冷えて三焦ふさがり、両脇の間、気ふくれ、手足共に冷えるなり

浮にやはらかに力なし
往くも来るもゆるやかとしれ

 

胃の気のある平脉
手足煩、悶え、息づかいはやし

四動の平脉より遅く
三動の遅脉よりはやし

細く動きて渋るなり
指を挙ぐれば無きように見ゆ

(陰)

腎の精汁尽きて身を潤すの血渇き少なくなる脉

極めておそく力あり
指を沈めてゆるく尋ねよ

 

腎虚して安からず、陽虚裏寒。
冷症をあらはす。

沈みかくれて骨につく
筋の下にてうかがうて見よ

 

毒気三関に塞がり、手足おもく寒なり陰陽潜伏して関格閉塞す

和らかにて力なし
手を転くしてさぐり求めよ

 

気血おとろえつかれ、陽虚自汗を主る。
五心熱し、丹田かわき、骨蒸労熱を主る

たをやかにして按せばたえ
軽くやわらか綿とおぼえよ

(陰)

精気虚極して骨髄空虚し、一身痺疼痛、寸口弱陽気虚し自汗、関上弱胃気上足、尺中弱陰気絶え骨肉痺れ肌いきる

竿のごとく長うして三部の間に余りこそすれ

(陽)

 

気血条理ありて乱れず緩を帯びる時は百病治し安し

按すも挙ぐるも数ありて短く去るは長の裏なり

(陰)

 

気滞り或いは胃の気おとろえて少し治しがたし。尺部にあるは死脉

力なくしてやわらかに広く大に遅く有りなし

 

 

気血虚搊す

せわしき中に一止まりまたまた来り又はつまづく

 

 

陽盛んにして陰上足す。熱を裏に蓄わうる事甚し

おそく緩くぞ往き来る
むすぼれては時に止まる

 

 

陰盛んにして陽相入れず。内外邪滞って積となる。血ながれ通ぜず、気めぐり散ぜず、脾間に積気あって手足痛み、もだゆる

何十動と極まりてぎょうぎ乱さず打を切れるなり

 

 

元気おとろえ極りて臓気絶ゆる。
痛み極りて代脉あらわす事あり。

沈みかくれて強く大きし
沈に似、伏に似たるは牢の位なり
実、大、弦、長の四脉を合するは牢の体なり

 

陰中の陽脉
牢にして長なるは肝の脉
牢堅牢固なるは寒ずるとき
失血陰虚の者牢なれば危うし

豆を転ばすごとくなり
踊らず動き関のみにあり

(陽)

 

四肢拘攣し、多くは疼痛す。
虚労栄衛虚し血利を主る。

来るも往くも遅くしていかにも細きいとすじとしれ

 

 

元気上足。精血乏しうして形痩せかじけ、足脛しびれ、毛髪かわき、力弱く、髄冷え、腎の精汁漏ることを主る

一息六至

 

風燥熱煩、陰虚陽盛

洪の盛んなる者なり

 

浮大~陽の病
沈大~陰の病

血虚気盛

至数斉しからず来り去る事定まりなし

 

 

心脉は浮大にして散じ
肺脉は短濇にして散じるは平脉

気血ともに虚し
根本脱離の時

弦にしてコウ(*1)なり
鼓皮を按すがごとし

 

弦を寒とし、芤を虚とす。
寒虚相搏つを革という

脉法手引草より抜粋 ( )は脉経より抜粋

四診法

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弁別・弁証の目的は臓腑・経絡・奇経の何れかにある気血の大過不及の存在を絞り込む作業です。この作業に一番重要で客観性がある情報は患者自身が訴える症状です。そしてその症状の発現している場所は更に重要な情報となります。症状が発現している場所が特定されるとそこを流れる経絡に気血の大過不及の何れかがあると予想できるからです。つまり体表・体幹内の流注を理解しておくという事は弁別・弁証するにあたって非常に重要です。複数の病症が同時に存在する場合でも一つか二つの経絡や奇経の不調和によって起こっていることがほとんどです。
また複数の経絡に病症が点在して一見脈絡の無いようにみえる場合の多くは奇経八脉の何れかの一奇経グループに含まれる場合が多いはずです。

[望診]



患者の肌の色などを五行にあてはめて患者の体質や今の状態を推察します。ただし必ずしも色と証は一致しません。難経四十九難にはその理由が詳しく解説してあります。


「四十九の難に曰く、正経自ら病むことあり、五邪の傷る所あり、何をもってか之を別たん。しかるなり、憂愁思慮すれば心を傷り、形寒え、飲冷するときは肺を傷る。恚怒(の気逆上して下らざるときは肝を傷る。飲食労倦すれば脾を傷る。久しく湿地に坐し、強力して水に入るときは腎を傷る。是れ正経の自病なり。何をか五邪と謂うか。しかるなり、中風あり、傷暑あり、飲食労倦あり、傷寒あり、中湿あり、此れを五邪と謂う。仮令ば心病何をもって中風之を得たることを知らん。しかるなり、その色当に赤なるべし、何をもって之を言えば肝は色を主る。自ら入りては青きことをなし、心に入りては赤きことをなし、脾に入りては黄をなし、肺に入りては白をなし、腎に入りては黒をなす。肝、心の邪となる。故に知らんぬ当に赤色なるべし。その病、身熱し、脇下満ち痛む、その脈浮大にして弦。何をもって傷暑之を得たること知らん。しかるなり、当に臭を悪むべし、何をもって之を言えば心は臭を主る。自ら入りては焦臭となり、脾に入りては香臭となり、肝に入りては?臭となり、腎に入りては腐臭となり、肺に入りては腥臭となる。故に知らんぬ心病傷暑より之を得れば当に臭を悪むべし。その病、身熱して煩し、心痛、その脈浮大にして散。何をもってか飲食労倦より之を得たることを知らん。しかるなり、苦味を喜むべし、虚は食を欲せざることをなし、実は食を欲することをなす、何をもって之を言えば脾は味を主る。肝に入りては酸となり、心に入りては苦となり、肺に入りては辛となり、腎に入りては?をなす、自ら入りては甘きことをなす。故に知らんぬ脾の邪心に入りては苦味を喜むことをなすことを。その病、身熱して腰重く、臥すことを嗜み、四肢収らず、その脈浮大にして緩。何をもってか傷寒より之を得たることを知らん。しかるなり、当に譫言妄語すべし、何をもって之を言えば肺は聲を主る。肝に入りては呼をなし、心に入りては言をなし、脾に入りては歌うことをなし、腎に入りては呻をなし、自ら入りては哭をなす。故に知らんぬ肺の邪心に入りては譫言妄語をなすことを。その病、身熱して洒々として悪寒し、甚しきときは喘咳す、その脈浮大にして□。何をもって中湿より之を得たることを知らん。しかるなり、当に喜んで汗出て、止むべからず、何をもって之を言えば腎は湿を主る。肝に入りては泣をなし、心に入りては汗をなし、脾に入りては涎をなし、肺に入りては涕をなし、自ら入りては唾をなす。故に知らんぬ腎の邪心に入りては汗出て止むべからざることをなすことを。その病、身熱して小腹痛み、足脛寒えて逆す、その脈沈濡にして大。此れ五邪の法なり。」


舌診は細かく弁別すれば奥が深いのですが寒熱の有無程度を直接診るのに簡単な方法で便利です。例えば舌に血色が無ければ寒証で舌が真っ赤にしていれば熱証でその赤みの程度で寒熱の有無や度合いを判断できます。

聞診 ;  患者から発せられる音(声・呼吸音・咳)を観察して病状を判断するのですが古来解説されてきた五音の分類の他に西洋医学的に考察した情報を東洋医学的に考察することも有意義です。例えば咳のある患者ではその咳が湿潤か乾燥しているかを聞き分けます。


また喘息症状があって呼吸をするのがつらい場合、吸気がつらいのか呼気がつらいのかを確かめることも有意義です。難経四難によれば「呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る」とあり、吸気の場合には腎の病症で呼気の場合は肺の病症であると判断できますから喘鳴を聴診して吸気・呼気の何れに雑音があるかを確認したり患者本人から呼気時に辛いのか吸気時に辛いのかを聞き出したりして診断に役立てます。


「四の難に曰く、脈に陰陽の法ありとはなんの謂ぞや。しかるなり、呼は心と肺とに出でて、吸は腎と肝とに入る。呼吸の間に脾は穀味を受く。その脈、中にあり。浮は陽なり、沈は陰なりゆえに陰陽という。心肺はともに浮、何をもってかこれを別たん。しかるなり、浮にして大散なるものは心なり。浮にして短□なるものは肺なり。腎肝はともに沈、何をもってかこれを別たん。しかるなり、牢にして長なるものは肝なり、これを按じて濡、指を挙ぐれば来ること実なるものは腎なり、脾は中州、ゆえにその脈、中にあり、これ陰陽の法なり。脈に一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽、一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰あり。この如きの言、寸口に六脈ともに動ずることありや。しかるなり、この言は六脈ともに動ずること有るにあらず。いわゆる浮沈、長短、滑濇なり。浮は陽なり、滑は陽なり、長は陽なり、沈は陰なり、短は陰なり、□は陰なり。いわゆる一陰一陽は脈来ること沈にして滑なるをいう。一陰二陽は脈来ること沈滑にして長なるをいう。一陰三陽は脈来ること浮滑にして長、時に一沈なるをいう。一陽一陰は脈来ること浮にして□なるをいう。一陽二陰は脈来ること長にして沈□なるをいう。一陽三陰は脈来ること沈□にして短、時に一浮なるをいう。各々その経の在る所をもって病の逆順を名づく。」


[問診]

四診の中で最も重要で時間をかけて診察しなければならない診察法です。患者が訴える症状を具体的に出来るだけ細かく聞き出します。


例えば患者が喉が痛いと訴えて直ぐに肺の病症と決めつけるのは軽率すぎます。まず痛みが持続性なのかある一定の条件でのみ傷むのか、持続性であれば拍動性があるのか緊張やひきつりがあるのか確かめる必要があります。喉の痛みが鼻の奥なのか舌の根元の方なのかはたまた耳の奥に近いところなのかを確かめることによってふ調和を起こしている経絡を絞り込むことが出来ます。


関節の痛みの場合などは動作によって増悪するかどうかどの動作によってそれが顕著に現れるか痛みの部位に関しては痛みの部位がどの経絡流注にあたるかも確かめなければなりません。


これらの問診は如何に経絡流注を把握しているかによって絞り込みできる範囲が違ってきますので体表面だけの流注に留まらず体幹深部の流注も把握しておくと便利です。


また臓腑の働きを知っておくことは病症の弁別に欠かせません。例えば頭痛においては胃の下降作用が上手く働かなくなった為に吐き気や頭痛の症状が出ることがあります。もちろん頭痛はその他にも肝・胆・膀胱・小腸・督脈などの病症としても現れます。時に複数の経にわたって病症が出ることもあります。また病症が精神的要因で現れたり物理的要因で現れたりと同じようにみえる頭痛でも細かく問診していくとその要因は様々です。従ってそれらの要因によって治療に選ぶ経穴も違ってきたりします。またその症状が精神的要因によって現れている場合にはカウンセリングの技術も出来るだけ備えておく必要があります。
東洋医学的に言えば心の問題が生じると生体内の気の調整が円滑に行われなくなって様々な症状が現れてきます。この様なときに適切なカウンセリングが行われると一時的にでも気の調和がとれるはずです。そしてその積み重ねは無視できません。また患者の状態を治療家が今現在どのように診てどのように治療していこうとしているかの説明、いわゆるインフオームドコンセントも大切です。


また多くの患者は東洋医学の概念はあまり詳しく知らない人が多いのですが反して西洋医学に関しては広く知られていることが多いので東洋医学的に説明するだけでなく西洋医学的に診るとそれがどう言うことであるか、またその場合に東洋医学が出来ることは何かと言うこともできるものは説明を加えると良いと思います。



[切診]


切診で一番重要な診察法と言えば脈診です。脈診には脈状診と脈差診があります。脈状診は患者の状態を知るうえでとても意義のある診察法です。また予後の判定、ドーゼ量などの治療方針を決めていくのにも有意義です。さらに毎回の治療の評価を脈状診によって終了時に行うことは絶対怠ってはいけません。脈差診は六部定位脈診が一般的で難経の六十九難などにみられるような陰陽、五行、相生、相剋理論に基づいた診察法でいわゆる経絡治療における代表的な脈診法です。脈状診も脈差診も習熟するにはどちらもたくさん数をこなして経験を積まなければなりませんが後で述べる私が考案した「簡易脈診法」を使えば初心者でも比較的正確に脈差診を行うことが出来ます。


次に腹診の西洋医学との違いは西洋医学では腹壁の下にある臓器を間接的に手で触れて腫瘤をみつけたりすることが主な目的ですが東洋医学では腹を上腹左右、心窩、臍周囲、下腹、下腹左右に分けてそこに五臓を割り当ててそれぞれの部位の状態を観察します。観察する項目は熱感・冷感、硬結・軟弱、乾燥・湿潤、膨隆・陥凹、圧痛などです。また腹に分布する経絡、経穴も併せて観察します。また腹部には募穴が分布しておりこれを観察し治療点とすることもあります。また鼠径部や下腹部では中央から任脈、腎経、脾経、胃経の順に経脈が流注しているのでそこを観察したり治療点に求めたりします。


次に切経ですがこれは患者が訴える場所の付近を循る経絡を観察したり病症から判断して流注上に何らかの変化を観察できる可能性のある経絡に沿って病症に適合する所見がないかを観察します。所見とは熱感・冷感、硬結・軟弱、乾燥・湿潤、膨隆・陥凹・圧痛などです。また更に絞ってその病症に関わりがありそうな要穴を観察したりします。切経に関しても体表の流注を良く知っておくことは当たり前ですが体表より深いところの流注を把握しておくことも弁別において有意義です。


「自動調整機能」の維持に重要な働きをしている気は一般的概念では正気と邪気が存在すると考えられています。しかし私自身は正気と邪気の区別はなく存在するのは気ひとつであると考えています。つまりその大過不及によってその及ぼす影響が違うだけで過呼吸時における血中酸素分圧の上昇が人体に及ぼす影響と同じことだと考えています。


具体的に言えば大過の時は気が多過ぎて正常に機能できず人体に不調和を起こします。このような状況にあるところの気を一般には別の物として邪気(実邪)と呼んでいますが元々は正気と呼ばれる気と何ら代わりのないものだと考えます。また不及の時も気が足りないだけなのですが足りないことで起こっている状況をあたかも何か特別の物が存在して起こしているように考えて虚性の邪などと区別したりしていますがこれも全く同じ気の現象のひとつだと考えます。


つまり一般に言う正気とは気が人体に都合の良いように働いている時の気の状態を指して言っていると考えます。したがって正気も邪気もどちらも全く同じ物でその人体への働きかけの違いによって呼び方を変えているだけと考えています。


ところでここで論じてきた邪気は厳密に言えば内邪のことです。『内因なければ外邪入らず』という言葉がありますが、では内因とはどんなものかを一言でいえば『気の大過不及の状態が体内に起っている状態』を指します。つまり内因があれば元々それだけで病症を発現し易くなっているところに更に体内の気のバランスを崩すようなストレスが外から加わると病症も更に出易くなります。また既に在る病症は更に増悪する可能性が出てくるということになります。


バランスの崩し方は『更に大きく大過不及が進む』場合と『体内の気の総量が更に減少してしまう』場合と『その二つが同時に起こる』場合があります。


『内因なければ外邪入らず』というのは体内においても元々程度の差はあれ大過不及があったり気の総量が少なかったりすると外界の刺激によって更にバランスを崩し病症が出易くなるということであって、もし体内において大過不及がなかったり仮にあっても気の総量が十分あれば病症は出にくいということをあらわしています。

実 技

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1.刺鍼法


前段の補瀉論に準じて刺鍼法を再検討しながら臨床にあたってみると刺鍼技術の如何によっても治療効果が違ってはきますが第一義に重要なのは正しく選穴され正しく取穴されているかという事だと言うことが判ります。つまり未熟な臨床家ほど治療効果にばらつきがあるのは弁証の未熟さばかりではなく取穴の曖昧さに因るところも多いと言うことです。従って正しく弁証され取穴が正確であれば特別な技術がなく普通の刺鍼技術であっても治療効果を充分期待できると思います。しかし、まずは正確に経穴に鍼を刺せる技術を得ることは必要です。押手の指先で目当ての経穴を探り当てたらその場所に鍼先が正確に行くように訓練すべきです。また、管鍼で刺鍼する方法で殆どの治療は出来ますが、捻鍼も同じように出来るようになってしまえば連続的な手技を手早く行うときなど臨床実践で非常に便利です。また治療の目的は症状を取り除くことですがその目的のために治療が間違いなく進んでいるかを確かめる手段として脈状診を用います。実際に試してみれば直ぐに判ることですが一本一本鍼をする度に患者の脈状は変わっていきます。したがって鍼を一本刺す度に検脈していれば治療方針や選穴・手技などが妥当かが脈状を診ることで判断できます。脈状の変化は同じ条件下でも鍼の材質・太さ、刺入の深さ、手技の違いなどで違ってくることがあります。何れにしても症状が改善するためには少なくとも脈状が改善されていかなければなりません。どの様な方法手段を用いても脈状が整ってこない限り問題は解決しません。


<刺鍼の深さ>

次に刺鍼する鍼の深さですが多くの場合それほど深く刺すことはなく切皮程度で充分です。時にそこから少し進めたり、また逆に皮膚に鍼尖が当たっているだけのような手技の方がよりよい脈状を作ることが出来るときもあります。これらの手技は色々な深さを試してその度の脈状の変化を観察して経験を深めていくことで必ず熟達してきます。正しく選穴し取穴していても気の動きが思うようにいかない時がありますがこういう場合に一番考えられるのは押手の問題です。例えば刺入の深さが浅いときは押手でしっかり鍼先を安定させないと刺入痛が出やすいし経験的に言えば脈状の変化も乏しくなります。何れにしても丁寧な手技が大切です。


<押手>

押手の役割はただ単に鍼体を支えているだけではありません。押手の出来の如何によって気の動きに大きな違いがあります。例えば難経七十一難にあるように体表面を流れる気を狙って鍼を刺すのかそれを越えて血脈を狙うのかによって押手の下面が皮膚面を押す圧力も変えなければなりません。具体的に言えば気を狙うときは押手は軽くして気の流れを妨げないようにしなければなりませんし逆に血脈を狙うときはその上の気の流れを損なわないように押手に圧力をかけて血脈の上を流れる気を押し退けて刺さなければなりません。


「七十一の難に曰く、経に言う、栄を刺すに衛を傷ることなかれ、衛を刺すに栄を傷ることかれとは何の謂ぞや。しかるなり、陽に針するものは針を臥せて之を刺す。陰を刺すものは先づ左手をもって針する所の栄兪の処を摂按して、気散って、乃ち針を内る。是を栄を刺すに衛を傷ることなかれ、衛を刺すに栄を傷ることなかれと謂うなり。」


<補法・和法>

経穴ゲートスイッチ理論に於いては従来の外から正気を補うと言う「補法」の概念を用いなくても治療を成立できます。あえて言えば経穴ゲートスイッチ理論に於ける「補法」とは目的のゲートを稼働させる為の手技である「余裕のあるところから偏って足りないところに気を補う」手法を「補法」と言い、「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」為の手法を「瀉法」の一部と言うことになります。つまり大過不及がある場合これらは普通単独では生じず大過があればどこかに不及があり、不及があればまたどこかに大過が存在します。病症が不及によって生じている場合「余裕のあるところから偏って足りないところに気を補う」補法を行い、病症が大過によって生じている場合「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」瀉法を行うと言うことになります。つまり「補法」にしろ「瀉法」にしろゲートスイッチが稼働するように鍼を行うことで大過であれ不及であれ生体が調和するように状況が変化すると考えます。そこには特別「補」もなく「瀉」もない領域、単に「ゲートスイッチを稼働させる為」の手法があります。刺鍼のやり方の中には雀啄・弾爪など様々の方法がありますが実際の臨床でゲートスイッチを稼働させるに必要な手技とは多くの場合が単刺即抜か置鍼で済みます。もしそれだけでは手応えに欠けるというようなときには「和法」の手技が有効です。「和法」の手技は元々は気血が滞っているときその動きを促す方法です。その手法は幾分雀啄に近い手技ではありますが厳密に言えば鍼を抜き差ししない方法です。具体的に言えば切皮し目的の深さまで刺人したならば鍼がぐらつかないように押し手をしっかり安定させたうえで鍼柄を刺し手で軽く持ち鍼先の方向に押しつけたり緩めたりを繰り返します。これをゆっくり繰り返していると私の場合は押し手の下で患者の皮膚が息打つような感じをしばしば感じ取ることがあります。これは「和法」に限らず滞っている気が盛んに動き始めるときには感じることが出来ます。この感じが掴めた時に患者に症状の変化を尋ねてみると症状が軽快したり消失したりしていることがよくあります。もちろんそういう結果を得るためには目的の症状に狙いを定めた選穴ができていることが大切です。またこの経験からも判るように鍼治療に必ずしも強い得気を得ることがそれほど重要ではないと解ります。「和法」の手法は標治法においても気血の流通を促す目的で広く応用できる便利な手法です。元来「和法」という言葉は故福島弘道先生が唱えられた概念と手法で「補でなく瀉でもない。しかし明らかに気の流通に滞りがあるときに有効な手技」として東洋はり医学会において位置づけられた手技のことを言うのですが「補でも瀉でもない」という概念からしても手法に於いても全くと言って良いほどそっくりなのでここでも同じ「和法」という言葉を使わせてもらいました。


補足)
一般的には大過と不及は生体内に同時に存在すると考えて良いのですが大過だけが存在する場合や不及だけが存在する場合も少なからずあります。大過だけが存在する場合の例として急性熱性疾患の一部があります。この場合は瀉法を施すだけで解決するものもあります。この場合の瀉法は毫鍼で行うものから三稜鍼で行うものまであります。三稜鍼の場合は井穴刺絡と細絡を切る方法などがあります。また不及だけが存在する場合には気血の絶対量が著しく乏しい状態の場合、東洋医学ならば鍼灸に加えまず食事療法や湯液によって気血の絶対量を増やす必要があります。そのままの状態で鍼だけをしても効果が著しく緩慢で病の変化に応じきれなかったりします。しかし食事療法や湯液によって気血の絶対量を増やすにしても多少時間を要しますからそれも猶予ならないような例えば激しい脱水症のような場合は西洋医学的に適宜輸液を行います。
気血の絶対量が少ない状態の時は何れにしても鍼は極々軽微に行います。


<瀉法>

先に述べたように「瀉法」と言っても私が考える「瀉法」は「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」為にゲートスイッチを稼働させるための手法です。従って「和法」は瀉法の範疇にもあると言うことになります。これも「補法」と同じで邪気の出入を計量する方法はまだありません。したがって脈状をみて手技の可否を判断するしかありません。しかし先に補足で述べたように著しく大過だけが存在する場合は「和法」では十分でないものがあります。これらは刺絡を行うことで整えることが出来ます。


考察)
霊柩九鍼十二原篇や小鍼解篇には刺鍼法が述べられており現代の刺鍼法もそれに準じて区別されていますが補瀉の手法に関しては当時の鍼と私達が使っている鍼との違いを考慮に入れて補瀉の手法を考える必要があると思います。つまり金属加工技術が未熟であった時代に於いては鍼の太さは今と比べると相当に太く刺鍼する度に押し手で止血をしないと出血してしまうようにあったと考えられます。ですから補瀉の手法をはっきり意識していないと経穴ゲートスイッチ理論で言うところの「余裕のあるところから偏って足りないところに気を補う」目的や「偏って有り余っているところから受け入れる余裕のあるところに気を流し込む」だけの目的で充分な場合に於いても目的に反して体外に過度に気血が漏れたりする恐れが多分にあるのでそういうことがないように補瀉の手法を厳密に区別する必要があったのだと考えられます。現代の日本で広く使われている程度の細身の一般的な鍼の太さであればそれほど厳密に補瀉の手技を意識しなくても取穴が正確であれば影響は少ないと思います。


<散鍼>

体表面の気の流通を面的に広く促すときに便利な方法です。鍼先を皮膚に軽く当たる程度にチョンチョンと刺し手だけで面的に突ついていくようにすれば「瀉的散鍼」になります。突つきますが突き刺すのではありませんし強い痛みを与えては駄目です。手技が適切であれば少し鍼先を感じても患者は不快感を持ちません。それどころか気持ち良いと感じる患者も少なくありません。チョンチョンと刺し手を動かしながら本来押し手であるもう一方の指の腹で鍼先の当たったところをさっさと撫でていく手法は滞った気の流れを促すときに効果があります。強いて名前を付ければ「和的散鍼」でしょうか。何れも手早く行うことが肝心です。


<刺入方向>

極浅い鍼の場合は鍼の方向を考慮してもあまり意味がないので直刺で構わないと思います。ただし切経して取穴する場合、指の押しつける方向によって反応が違う場合があります。反応は術者の指先に硬結などを感じるだけの場合と患者が圧痛などを併せて感じる場合があります。この様なときはその反応を良く感じた方向に向けて鍼先を向けると目指す効果がより期待できます。特別流注に従ったりまた逆らったりして補瀉を考えることはありません。あくまでも気血のアンバランスを是正できるスイッチをONにする為に鍼を刺します。

難経(五十一難~八十一難)

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五十一難(病理:温・寒)

五十一の難に曰く、病に温を得ることを欲するものあり、寒を得ることを欲するものあり、人を見ることを得んと欲するものあり、人を見ることを得んと欲せざるものあり、しかして各々同じからず。病何れの蔵府に在るや。しかるなり、病寒を得んと欲して、人を見ることを欲する者は病府に在り、病温を得ることを欲して、人を見ることを欲せざる者は病、蔵に在り。何を以もって之を言えば、府は陽なり、陽病は寒を得ることを欲し、又人を見ることを欲す。蔵は陰なり、陰病は温を得ることを欲して、又戸を閉ぢて独り処ることを欲して人の聲を聞くことを悪む。故にもって蔵府の病を別ち知るなり。


五十二難(病理:病位)

五十二の難に曰く、府蔵の病を発す根本、等しきや否や。しかるなり、等しからざるなり。何かん。しかるなり、蔵病は止つて移らず、その病、その処を離れず。府病は彷彿、賁嚮し、上下行流し、居処常無し。故に此をもって、蔵府根本同じからざることを知るなり。
 

五十三難(病理:証の伝変)

五十三の難に曰く、経に言う、七伝の者は死し、間蔵の者は生くとは何んの謂ぞや。しかるなり、七伝はその勝つ所に伝え、間蔵はその子に伝うるなり。何をもって之を言えば、たとえば、心病肺に伝え、肺肝に伝え、肝脾に伝え、脾腎に伝え、腎心に伝う。一蔵再び傷れず、故に七伝の者は死すと言うなり。たとえば心病脾に伝え、脾肺に伝え、肺腎に伝え、腎肝に伝え、肝心に伝う。是れ子母相伝えて竟つて、復た始まる。環の端無きが如し、故に生くというなり。


五十四難(病理:予後)

五十四の難に曰く、蔵病は治し難く、府病は治し易しとは何んの謂ぞや。しかるなり、蔵病治し難きゆえんのものはその勝つ所に伝うなり。府病治し易きはその子に伝うるなり。七伝間蔵と法を同じうするなり。


五十五難(病理:積聚)

五十五難の難に曰く、病に積あり、聚あり、何をもって之を別たん。しかるなり、積は陰気なり、聚は陽気なり、故に陰は沈んで伏し、陽は浮んで動ず、気の積む所を名けて積といい、気の聚る所を聚という。故に積は五蔵の生ずる所、聚は六府の或す所なり。積は陰気なり、その始めて発する常の処有り、その痛み、その部を離れず、上下終始する所あり、左右窮る処の所あり。聚は陽気なり、その始めて発するに根本なし、上下留止する所なし、その痛み、常の処なし、之を聚と謂う。故に是をもって積聚を別ち知るなり。


五十六難(病理:五積病の伝変)

五十六の難に曰く、五蔵の積、各々名有りや。何れの月何れの日をもって之を得る。しかるなり、肝の積を名けて肥気という、左脇下に在って覆杯の如く、頭足有り。久しくして愈えざれば人をして咳逆、カイ瘧(マラリア)を発して歳を連ねて己えざらしむ。季夏戊巳の日をもって之を得、何をもって之を言えば、肺病肝に伝う、肝当に脾に伝うべし、脾は季夏適に王ず、王ずるものは邪を受けず、肝復た肺に還さんと欲す、肺肯(アエ)て受けず、故に留結して積をなす。故に知らんぬ、肥気は季夏戊巳の日をもって之を得ることを。心の積を名けて伏梁という、臍の上に起って大さ臂(ヒジ)の如し、上心下に至る、久しくして愈えざれば、人をして煩心病ましむ。秋庚辛の日をもって之を得、何をもって之を言えば、腎病心に伝う、心当に肺に伝うべし。肺は秋をもって適に王ず、王ずるものは邪を受けず、心復た腎に還さんと欲す、腎肯て受けず、故に留結して積をなす、故に知らんぬ、伏梁は秋庚辛の日をもって之を得ることを。脾の積を名けて痞(ヒ;ツカエ)気という、胃脘に在って覆して大さ盤の如し、久しくして愈えざれば、人をして四肢収らず、黄疸を発し、飲食、肌膚とならず。冬壬癸の日をもって之を得、何をもって之を言えば、肝病脾に伝う、脾当に腎に伝うべし、腎は冬をもって適に王ず、王ずるものは邪を受けず、脾復た肝に還さんと欲す、肝肯て受けず、故に留結して積となる。故に知らんぬ、病気は冬壬癸の日をもって之を得ることを。肺の積を名けて息賁という、右の脇下に在って覆して大さ杯の如し。久しくして己えざれば、人をして洒浙として寒熟し、喘欬し、肺壅(ョウ;フサグ)を発す。春甲乙の日をもって之を得、何をもって之を言えば、心病肺に伝う、肺当に肝に伝うべし、肝は春をもって適に王ず、王ずるものは邪を受けず、肺復た心に還さんと欲す、心肯て受けず、故に留結して積となる。故に知らんぬ、息賁は春甲乙の日をもって之を得ることを。腎の積を名けて賁豚という、小腹に発して上心下に至り、豚の状の若く、或は上り、或は下り、時なし。久しくして巳えざれば人をして喘逆して骨痿(ナ)え、少気ならしむ。夏丙丁の日をもって之を得、何をもって之を言えば、脾病腎に伝う、腎当に心に伝うべし、心は夏を以って適に王ず、王ずるものは邪を受けず、腎復た脾に還さんと欲す、脾肯て受けず、故に留結して積となる。故に知らんぬ、賁豚は夏丙丁の日をもって之を得ることを。此れ五積の要法なり。


五十七難(病理:泄)

五十七の難に曰く、世に凡そ幾くか有る、皆名有るや。しかるなり、世に凡そ五有り、その名同じからず、胃泄有り、脾泄有り、大腸泄有り、小腸泄有り、大瘕(カ)泄有り、名けて後重という。胃泄は飲食化せず、色黄なり、脾泄は腹脹満し、泄注し、食すれば、即ち嘔吐し逆す。大腸泄は食し巳めば窘(キン:クルシム)迫し、大便の色白く、腸鳴って切痛す。小腸泄は溲して膿血を便し、小腹痛む。大瘕(カ)泄は裏急後重し数々圊(カワヤ)に至って便すること能わず、茎中痛む、此れ五泄の要法なり。
 

五十八難(病理:傷寒・脈診)

五十八の難に曰く、傷寒幾くか有る、その脈変有りや否や。しかるなり、傷寒五有り、中風有り、傷寒有り、湿温有り、熱病有り、温病有り、その苦しむ所各々同じからず。中風の脈は陽浮にして滑、陰濡にして弱、湿温の脈は陽浮にして弱、陰小にして急、傷寒の脈は陰陽倶に盛にして緊濇、熱病の脈は陰陽倶に浮、之を浮べて滑、之を沈めて散濇、温病の脈は諸経に行在して何れの経の動たる事を知らず、その経の所在によって之を取る。傷寒汗出て愈え、之を下して死する者有り、汗出て死し、之を下して愈る者有るに何んぞや。しかるなり、陽虚陰盛は汗出て愈え、之を下せば死す。陽盛陰虚は汗出て死し、之を下せば愈ゆ。寒熱の病、之を候うこと如何ぞや。しかるなり、皮寒熱するものは、皮席に近くべからず、毛髪焦れ、鼻藁(カワキ)て汗することを得ず。肌寒熱するものは、皮膚痛み、唇舌藁れ、汗無し。骨寒熱するものは病安んづる所なく、汗注いで休まず、歯本藁れ痛む。


五十九難(病理:狂癲)

五十九の難に曰く、狂癲の病、何をもってか之を別たん。しかるなり、狂疾の始めて発するや臥すこと少くして飢えず、自ら賢を高ぶり、自ら智を弁じ、自ら貴に居るなり、妄りに笑い、歌楽を好み、妄りに行って休まざる是なり。癲疾の始めて発するや、意楽しまず、僵仆直視す。その脈三部陰陽倶に盛なる是なり。


六十難(病理:頭痛・心痛)

六十の難に曰く、頭心の病に厥痛有り、真痛有りとは何の謂ぞや。しかるなり、手の三陽の脈、風寒を受け伏留して去らざるもの則ち厥頭痛と名づく。入って脳に連り在するものを真頭痛と名づく。その五蔵の気相干すと厥心痛と名づく、その痛み甚しきこと、ただ心に在って、手足青ゆるものを即ち真心痛と名づく。その真心痛の者は旦に発すれば夕に死し、夕に発すれば旦に死す。


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